【 大野英章の“昼夜常精進”】

空手道場 白蓮会館(佐賀・福岡) ならびに 日蓮宗仙道山勝厳寺の活動日記。

仙道山勝嚴寺は、佐賀県にある日蓮宗の寺院。各種因縁・未来鑑定/加持・祈祷修法・お祓い・追善供養・水子供養/葬儀・納骨堂・墓地/宗教相談/妙法蓮華經/観心の本尊

国際空手拳法連盟 白蓮会館九州本部は、佐賀・福岡で活動する実戦空手道場。護身錬胆・健康増進・精神修養。ステップ指導で無理なく上達/各会員の目的に応じたクラス編成/新人戦・選手権への挑戦/子供達の礼儀の徹底と体力の向上。

だいぶ前のことになってしまいましたが、12月8日は勝嚴寺の鬼子母神冬季大祭で、同じ日に撥遣淨焚式(ほっけんじょうぼんしき・お焚き上げの意味)も併せて行います。
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現代ではゴミを自分の自宅敷地内で燃やすことはできません。
ただし、年末年始に神社仏閣で行われるお焚き上げのような場合は、宗教儀式として特別に認められています。




今年のお焚き上げは近年稀に見る大量のモノが集まり、とりあえず全体の3分の1ほどを燃やし、そこで一旦法要としては解散して直会をして、あとで午後から夕方にかけて地道に父と2人で全部を燃やしていきました。

今回の主役は仏壇。
これはあまりにも高い火柱が上がるので、参拝の皆様がすっかり帰られた夕方頃にひっそりとお焚き上げします。

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数分後には下半分はすっかり燃えてしまい

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わずかな間に上半分も燃えてしまう。

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ゴミを燃やせない昨今、モノが燃えていくさまをじっくり見るのは久しぶりのことでした。


今更ながら、火の燃え広がるスピードの速さと言ったらない。
こんなに場所を取る巨大な仏壇が、完全にカタチを失い、灰になるまでものの20分くらいでした。


人類史における技術革新は何度かあったでしょうが、その最大のものとして『火』を制御できるようになったことが挙げられます。
この発明?はニュートン力学や活版印刷が人類に与えた影響よりもはるかに大きい。

火を使うという基礎土台の上にいろんな発想、発明を乗せて現代の文明がある。
その火と、現代の日本人はあまりにも隔絶され過ぎてきていないたろうか。



小さい頃、わたくしは父や兄とともにさんざんゴミを燃やしてきました。
子供の手伝いとして、お皿拭き、お風呂洗い、ゴミ燃やしがあり、特にゴミ燃やしは子供にとって遊びの要素も満載で、いろんな素材の物質が、どのくらいの時間をかけて、どのくらいのスピードで燃えていくのか、ひたすら観察してきました。大したことではありませんが、モノが燃えていく様子は、膨大な統計としてわたくしのアタマの中に記憶されています。

中でも、なかなか燃えないのは本。

一見、完全に燃えてしまったようでも、軽く棒でつついてみると、へりだけ燃えた真っ白なページが何枚も重なり合ってて、中身は全然燃えてない。

あと生の木。
これもなかなか着火してくれない。

しかし、一旦火がつくと燃え広がるスピードは速い。

逆に、生の木でもすぐに火が着くのもあります。お寺の境内には実にさまざまな植生がありましたから、なかなか火がつかない時はその木の枝を先に燃やして、その上に濡れた花など、燃えにくいものを置いて燃やします。

完全に灰にできたら父に褒めてもらっていました。

父はすごかった。

はっきり言ってゴミ燃やしの達人でした。

雨上がりの朝、ずぶ濡れになった落ち葉や木の枝ですら、着火用の新聞紙が1枚あれば全部燃やす。
派手に炎が上がらなくても、最下層に火種を作って、
『もう、あとはほっといても大丈夫』
と言って火から離れます。
子供からすれば、煙だけで、一向に燃え上がる雰囲気がなくて、これじゃあそのうち消えてしまうぞ、と思っていても、1時間後くらいに戻ってみると、全部灰になっている。

まるで手品のようでした。

もしテレビ番組の企画かなにかで、燃えにくいものを短時間で燃やす競争があったなら、父は国内でもかなり上位にいくんじゃないかと本気で考えていたくらいです。

着火用の新聞紙も、形状によって燃え方、燃焼時間に差があります。

新聞紙を棒状にねじった先端の火は、フッと息を吹きかけて消すことができる。
広げた新聞紙に息を吹きかけたら逆にどんどん燃え広がる。
折りたたんだままの新聞紙は、本と同じでなかなか燃えない。面倒でも1枚ずつ、できればクシャクシャに丸めた方が空気がたくさん入って燃えやすい。

他にもいろんなことを学びました。

もはやこれらの知識を使う場面がこの先の人生であるかどうかわかりませんが、高度に発達した文明において、たかだか室内で発生したあの程度のボヤの初期消火ができなかったことは恐ろしい。
あれを見て笑う人は多いが、笑った人も同様の場面に遭遇した際に、その場にあるもので冷静に消火ができたかどうかわかりません。

ナイフで鉛筆を削れなくても死ぬことはないが、火の特性をあまりにも観察してこなかった人生を送って来た人は、ささいなきっかけで命を落としかねません。

小学校の自由教科などで落ち葉を燃やしてみる授業なんてできないのかな。

できないだろうね。


そういえば、小中高にはそれぞれ焼却炉があって、用務員の先生や、父のようにゴミ燃やしに自信のある先生が場を切り盛りして、各教室から集まったゴミを燃やしていました。

つい数年前まで当たり前だった光景が今や犯罪ですから。


そんな郷愁に浸りながら、黙々と仏具、法具を燃やし続けた年末年始でした。






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前回の続きです。


佛教を象徴する花といえば、やはり蓮。

『不染世間法 如蓮華在水』
(妙法蓮華經從地涌出品第十五より ※世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し)

特に白い蓮の花は、汚れた泥水の中でも周りに染められることなく浄らかであることから、佛の坐す場所として大切にされてきました。


われわれの所属する空手道場『白蓮会館』も、その精神を道場の名前に冠しており、儚い流行にいちいち流されることなく武道の真髄を極めるべく精進するという誓願が込められています。

また、日蓮大聖人が、これこそ諸佛出世の本懐であるとして、数ある經典の中で最も重要視された妙法蓮華經(略して法華經)も、その題目に、蓮華の如き妙法を著した經典であるとの意味を込められていると言われています。


佛の智慧とは、流行や、その時々の人が作った決まりなどの、いわゆる世間の法に左右されることがないのはもちろんですが、それならば『蓮華の法』。この法は蓮華のようである、となります。

ところがこれは『妙法』であり、さらに『蓮華經』と続く。


『妙』とは『筆舌に尽くしがたい』という境地であり、この法、すなわち佛の智慧は言葉にはできない。だからこそ『妙法』と言うしかないのです。
方便品にも
『唯佛與佛 乃能究尽 諸法実相』
(ただ佛と佛のみ諸法の真実の姿を見極めることができる)
とあり、逆に言えば
『あんたら庶民には、わからんぜ』
となります。

だから説明する必要がない。
だって、理解できんもん。

と、釋尊は黙り込まれる。

そこを再三再四、弟子達が懇願するもんだから、少しずつ佛の究めた智慧の世界を説明をしてくださる。

そしてこの法は、佛滅後の時代の地涌の菩薩に付嘱する。
この妙法は『蓮華』のような經典であり、説の如く修行すべし、と。


どのへんが蓮華っぽいのか。

泥に染まらずに美しく咲くところか。

違うと思う。
わたくしは逆に考えなければならないと思うのです。

蓮華は泥の中で染まらずに美しく咲く。

そうじゃない。逆です。

蓮華は汚い泥の中でないと咲けない。


蓮華は綺麗に澄んだ水の中では咲くことができないのです。
自身を取り巻く環境が汚くなければ咲けない花が蓮華なのです。

これを智慧の顕現の条件だと考えればしっくりくる。


平凡な暮らしの中では智慧は出てこない。苦難にぶつかった時に初めて佛智が顕れるのではないか。
断食して食べもののありがたさ、命のありがたさに気がつくように、当たり前に景色を見てるうちは何も見えず、失って初めて気がつく。
または、なんらかの不幸な事故に遭遇して、そこで初めて気がつく。
智慧は、どっか別の世界から移植してくるものではなく、最初からそこにあった。しかし凡夫には見えない。凡夫とは、世の中の諸法を当たり前と見て、諸行を永遠と錯覚するからこそ凡夫です。

だからと言って、凡夫が不幸な目に遭えば智慧が見えるのかと言えば別にそうでもない。
不幸を恨んで、なんでオレだけこんな目に、などと思っているうちは智慧は見えません。ただその不幸に痛めつけられて終わり。そして、少し時間を置いて再び似たような不幸に襲われて、また前回と同じように痛めつけられる。で、そんなことを延々と繰り返す。

これこそ無限の輪廻で、我々はなんとかそこから解脱しなきゃならない。

そこで、冷静に観察するのです。そしたら、ちゃんとそこには智慧がある。


恵まれた環境を捨てて、ひとり佐賀県で空手道場を始めてみると、総本部の環境があまりにも素晴らしいことがわかった。そんな素晴らしい環境でこの数年感を過ごすことができた自分がいかに恵まれていたのかわかった。
これは、ただアタマで納得したのとは違う、大いなる感動を伴ってカラダで理解できたのです。

そしたら空手が実におもしろい。
おもしろいと身につく。1人で自主トレする以外特になんもしてなくても強くなれる。


いったん議席を失った国会議員が数年ぶりに再選して国政報告会をやったら、それまでの浪人の期間があったからこそ、この国政報告会を開催できることそのものが、とにかくありがたいことなのだと痛感できるわけです。心からありがたいと思って開催する国政報告会はもはや以前のそれとは違う。智慧の国政報告会です。
でももし安定して議席を守っていたら、国政報告会はただの面倒くさい必須タスクのうちのひとつに成り下がっていたかもしれない。

世間の法からすれば連続で議席を守る方が評価されます。しかし、議席を失ったからこそ感動を得られた。
どっちが貴いか、人に意見を聞けばもちろん連続当選する方が偉かろうが、それは真実の物差しとは関係ない。


真水には咲かなかった花が、泥にまみれて初めて咲いたのです。


感動するためには、順風満帆だけじゃ足りません。壁にぶつかり、穴に落ちて、人に叩かれ、世間に叩かれ、だからその意味を考える機会をもらい、因縁果報に想いを馳せる機会をもらい、やっとひとつ感動という智慧を得る。

今まさにつまづいているその事件は、全て自分の魂の成長のためであった。

空手でも、涙を流すほど悔しいことがあって、そこで気持ちが入れ替わって、そこから強くなれるじゃないか。まさに空手の修業は白蓮の花の如し。それこそが白蓮会館の空手の意味ではないのか。

佛も、乱れに乱れた末法の世の中にようやく出現なさる。逆に、ある程度秩序が維持された社会には出現されない。まさに蓮華のようではないか。


白蓮の花はそうわれわれに教えてくれているのだと考えるようにしております。





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『知識』と『智慧』と、どう違うのか。


試みに英訳を探してみると、
『知識』は『knowledge』
『知恵』は『intelligence
『智慧』は『wisdom』
と翻訳されました(Google翻訳アプリ)。

なるほど。
『knowledge』と『wisdom』では、たしかにレベルの開きを感じます。

国語辞典では
智慧=道理を判断し処理する能力』
とあります。
『一切の現象や、現象の背後にある道理を見きわめる心作用を意味する仏教用語
だそうですよ。


知識をいくら持ってても、それは智慧ではないらしい。


現時点でのわたくしの理解では、つまるところ佛の『智慧』とは『感動を経験すること』である、と思っております。

『知識』も『智慧』も、どちらも情報には変わりないが、その情報をインプットした際に『感動』を伴って取り入れたかどうか。
ここが、せっかく得た情報がただの『知識』で終わるのか『智慧』に昇華するかの違いではないだろうか。


少し前に、

【「ありがとう」の反対語を知っていますか?】

というセンセーショナルな問いかけがSNS上で散見されました。

『ありがとう』とは『有り難く』の音便化したものであり、その字が表す通り『存在することが難しい』という意味です。すなわち希少価値のあるもの、転じて感謝を表す言葉として定着しています。

では『有り難い』の字義を反転させてみると『存在が容易である』すなわち希少価値など全くない、『存在することが当たり前である』になります。

そう。

『有り難い』の反対語は『当たり前』。

当たり前とは、感謝の気持ちが極めでゼロに近い状態です。

母が晩飯を作るのが
『ありがたい』
母が晩飯を作るのが
『当たり前』

健康な身体を持ってることが
『ありがたい』
健康な身体を持ってることが
『当たり前』

学校に行けるのが
『ありがたい』
『当たり前』

給料もらうのが
『ありがたい』
『当たり前』

水を飲めるのは
『ありがたい』
『当たり前』

まさに反対語です。

なるほど。とりあえず頭では理解した。

で、水を飲める環境にいることを『当たり前』だと考える思考に劇的な変化があるかと言えば、今は記憶に新しいから、もし目の前に水があれば『ありがたい』と思いながら飲むかもしれない。でも明日には当たり前にもどる。

これが『ありがたい』と心から思えるまで昇華するためには、それはもう、強い強い感動が必要です。

智慧とは、どんなありふれた体験であっても、そこに強い感動を伴えば『ありがたい』もので、心から『ありがたい』と思って我々の住むこの世界を改めて見直してみると、それはもう、今まで見慣れた当たり前の世界もかけがえのないタイミングと様々な縁で奇跡的に存在していることが理解できるわけです。



わたくしの白蓮会館総本部職員時代、周りは素晴らしい先輩ばかりで、しかも有名選手もひっきりなしに出稽古に来られ、毎日毎日、貴重なアドバイスをいただく。
もちろん珠玉の助言ばかりです。

しかし、いつしかそんな珠玉の世界での暮らしに慣れ、感動することが少なくなってきた。
同じ人とばかり練習するわけじゃない。常に別の人と交わります。そんな恵まれた環境でも慣れると感動しなくなるものです。

どんなに恵まれていても、それが『当たり前』になってしまえば、なにひとつ成長しない。
そんな総本部での生活に閉塞感を持っておりました。


日本のクリスマスは、キリスト教世界からみると良くも悪くも独特の雰囲気のイベントですか、何かで読んだ記憶によると、世界の多くのキリスト教徒はクリスマスに断食をするらしい。

日本のクリスマスでは豪華やご馳走が並び、そのあとにケーキも食べる。1年で最も食卓が賑わう日かもしれません。

しかし、本来の?クリスマスには、キリスト教徒は断食をします。

年に一度くらい、クリスマスの聖日くらいは断食をして、いのちを殺していただくことの有り難さ、また、自分がそのおかげで生かされていることの有り難さを思い出そうじゃないか。そんな重要なイベントだそうな。

まるっきり逆ですね。


そうやって、敢えて『有り難い』という気持ちを定期的に思い出すことによって、智慧の目で世の中を俯瞰する。
そしたら、今まで全く見えなかった真実が見えてくる。この新しい見え方が『智慧』そのものなのでしょう。



24歳の時、杉原宗師に相談して、白蓮会館の暖簾分けをしてもらって佐賀に帰ってきました。

もちろん、1人っきりになります。

心から信頼できる師匠も、憧れの強い先輩も、楽しい仲間も、常設道場も、ウエイト機器も、空手だけやってればみんなに評価される暮らしのサイクルも、全て残して、1人になりました。

ここで気がつくのです。

『ありがたい』。

なんと自分は有り難い環境でこれまで何年も空手に打ち込んできたのか。
なんてありがたい。
こんな恵まれた人生、なかなか選べるもんじゃない。

そう思って自主トレすると、たとえ1人っきりでもそんなに弱くはならないんですよね。
むしろ強くなった。振り返れば佐賀に帰ってきたすぐの、1人からスタートしたあの期間こそが最もグッと強くなれたのかもしれない。

智慧のおかげです。


佛になるのはつくづく大変です。
一生かかっても、一切智には程遠い。

あと何度、死んで産まれて、また死んでを繰り返して智慧が繋がるのだろうか。



さて明日は日蓮宗大荒行堂の成満会です。
修行僧の皆様、おつかれさまでした。

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わたくし、人にモノを教えるということが得意でして、もちろん空手もですが、九星氣學、国語など、特に一般的に習得が難しくて断念する人が多い箇所、例えば国語なら、現代文法で品詞の見分け方とか、助動詞の活用の種類とか、国語の先生でも教えるのが割と苦手なところをしっかり教えて点数を取らせることにはそれなりの自信があります。


このたび父がiPhoneに機種変更しました。


人にモノを教えることに自信があるわたくしではありますが、父にiPhoneの使い方を教えるのよりも教えるのが難しい分野にはこれまで出会ったことがない。

壮絶に難しい。


今日、父の機種変更に付き合ったんです。

父はスマートフォンに多少なりのコンプレックスがあったみたいで、ガラケーにするつもりが、
『うん。新しいことに挑戦してみゅーかにゃ』
などとのたまい、土壇場でiPhoneにしました。

さすがにホームボタンのないiPhone Xはためらわれたので、今回の父のはiPhone 8です。


これがまた難しい。

3歳児に左右の概念を教えるよりも
縄跳びすらできない子に2段階スイッチを教えるよりも
ペンを持つのもご無沙汰な60代女性に後天定位盤の遁甲の仕方を教えるよりも
幼稚園生に花結びを教えるよりも

父にタッチパネルの使い方を教える方が圧倒的に困難です。


ホームボタンを強く(長く)押しすぎてSiriを呼び出してはパニックになり

アプリを強く(長く)押しすぎては削除したり

アプリを開くたびに、位置情報を許可するのかとか、◯◯がカメラにアクセスしていいかとか、なんやかんや質問がある。


これがなかなか邪魔くさい。

わたくしはこれまでほとんど気にしたことがなかった。
ところが、父に使わせるとなると、いちいちそれらの質問などの場面転換が気になる。


いったいなぜ、今わたくしは不自由なくiPhoneを使えているのだろう。

誰に教わったわけでもないが、その使えるようになった道を父に歩ませようとも、その道を険しいと感じるそれまでの知識、経験が、わたくしと父ではあまりにも違いすぎる。


現代社会は年寄りに残酷だ。


老人の『老』という字は、今でこそマイナスな意味しか感じられないが、本来は『経験や知識が豊富である』という意味であった。
だからこそ『家老』は頼りになったし、『大老』なんて地位は最高の褒め言葉だった。『老師』とは年を取った先生ではなく、なんでも答える先生のことだった。

ところが現代社会は、年寄りの知識、経験が応用できぬ場面があまりにも多い。

父とて、わたくしとは比べものにならないほどの知識、経験があるのですが、新時代の標準機器を使う、たったその土俵に上がるだけさえ困難です。


目の悪い父ですが、ただでさえ要領の悪い父ですが、2人で並んで座って、電話を受けること、かけること、それに写真を保存し、見返せるようになること、それくらいができるようになるまで頑張ります。

かけがえのない親孝行の時間だと思って。

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日蓮宗宗務院に来ています。

昨日は朝一の飛行機に乗って、中山まで足を伸ばしてみました。
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今回、初体験をみっつ。


ひとつ目。
事務所に入らせてもらった。

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ここから見える風景はなにもかも新鮮。
扉を隔てた向こう側は結界です。興奮します。

たまたま事務所の中にこの方がいらっしゃって
『ちょい、上がっていけよ』
と誘われて、コーヒーまで出していただいて、なんとも言えない時間を過ごしました。


ふたつ目。

初めて遠壽院に入らせてもらった。
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遠壽院にはちょっとしたコンプレックスがあります。わたくしだけでなく、法華経寺行堂出身の修法師なら、みんな似たような想いを持っているのではなかろうか。

今年はわたくしと参行の同期だった福岡の林上人が、再行で入られています。ええ。どっちにも複数回入られているスーパーマンです。

面会してきました。

なるほど遠壽院ってこんな雰囲気なのか。
わたくしの曾祖父はここで修行したのだな。


その後、伝師部にて松島正英僧正と面会。
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聖教殿の前の大木に向かって大声で御題目を唱え続けられている男性がいらっしゃいました。
伝師部での面会が終わって外に出ても、まだお唱えなさっている。いったい何を祈ってらっしゃるのだろう。

今回、面会したのは松島伝師、参行加藤上人、初行小寺上人の佐賀管区の方のみ。たまたま面会所でお会いしたお上人も数人いらっしゃったが、御祈祷も途切れることなく続いており、あまり御修行を妨げるのもとお呼びしてお話しするのは遠慮しました。



みっつ目。

初めて菊寿司に入ってみた。

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そしたら、やっぱりいた。
奥の小上がり席に、明らかに偉そうなお上人様方が。

こういう時は入り口に一番近いカウンターに座れと何かの本に書いてあった。

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大将の話では、◯◯管区の宗務所長の◯◯上人だそうな。
へー!そうなんですか!と驚いてみせたものの、この業界に友達が少ないわたくし、さっぱりわかりません。

そんなこんなで今日は東京です。
次に中山に来るのはいつになるだろう。

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まず、こちらのニュースをご覧ください。

【速報】大阪地下鉄新会社の名前は「Osaka Metro」

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わたくしはこのニュース、かなり気に食わない。

記事にもありますが、この『大阪メトロ』は和文ではなく英文表記が正式です。

『Osaka Metro』のほうが世界に通じる名前だからとのことですが、例えばフランス人が世界的には英語の方が知られているから、というような理由でもともと存在したフランス語表記の名称を英語風に書き換えることをするでしょうか。

似たような例はたくさんあって、いちいち目くじらを立てるようなことではないのでしょうが、もともと慣れ親しんだ名称を英語に変更、しかもアルファベット表記が正式です、という発表に、へぇーそうですか、と抵抗なく国民が受け入れたことにわたくしは恐ろしさを感じております。

例えば、株式会社は日本語でなければならないという法律があり、エイチ・アイ・エスとか、どっからどうみてもこれはアルファベットでしょ、というような企業ですらも登記上はカタカナじゃなければならなかった。
それがある意味、日本文化の防波堤のような働きを持っていたと思うのですが、これが平成14年にアルファベットでも登記が可能になりました。確かにこれは時代の流れとして仕方ないことかも知れません。

ところが今回は、いち民間企業だけの問題ではなく、特に公共性の高い交通機関の正式名称がアルファベット表記なってしまいました。

通常、占領国は被占領国に戦勝国の言語を教え込み、そこから固有の文化を奪い、精神的に支配を強めていきます。
それなのに日本人は、自発的に自国語を捨て、各所に外来語の表記を増やしていく姿勢、殊に、公共性の強い交通機関の正式名称ですらカタカナどころか、アルファベット表記に変えられていく潮流に、ひとりでも多くの方に危機感を持ってほしいわけです。

2000年に開催された沖縄サミットのテーマ曲に、安室奈美恵の【 NEVER END 】が使われましたが、ご存知の通り、この曲には英語の歌詞がかなり混じってます。諸外国から見て、日本で行われる国際会議の象徴曲が、英語と日本語の混在歌詞であることをどのように感じられるでしょうか。所詮、日本国はアメリカ合衆国の制御下の傀儡国家だと思われたのではないでしょうか。

北朝鮮に対する中国の影響力の大きさは決して小さくはないでしょうが、仮に北朝鮮公式の歌があったとして、そこに歌詞に中国語の歌詞が混じることは絶対にない。そんなことをしてしまったら国際社会に中国と北朝鮮は主従関係にあるんですよと示すことになるからです。

世界各国を見渡してみて、その国の言語に日本語混じりの歌がどれほどあるでしょうね。
逆に、日本歌謡曲に英語の歌詞が混じっていない歌がどれほどあるでしょうね。
98%くらいは英語がまじってませんか?

これは誰の指示ですか?
誰も別に変だとも思わずに、
『英語カッコいい』
程度の認識で、積極的に英語に置き換えてませんか?
そういう意味でも日本はあからさまにアメリカと主従関係にあります。

現在のところアメリカ合衆国と我が国は同盟国です。ところが、どんな些細な出来事をきっかけとしてこの2国間の関係性が悪化するかわかりません。その時、この国の至る所が英語に置き換えられている状態の意味に気づかされるでしょうが、その時にはもはや手遅れなのです。

日本語を守ることは国防の基本中の基本です。中韓だけが敵ではありません。得体の知れぬ何者かに巧妙に自国文化をそれと気づかぬように奪われているこの状況を憂慮すべきではないでしょうか。


単語と概念(モノ)が同時に輸入されてきた場合までとやかく言うつもりもありませんし、あまりに日本語訳が長過ぎるとか、画数が多過ぎるなどの理由で不便なら、サラッとカタカナに変えて汎用性を高めることもやぶさかではありません。
例えば、パンもコーヒーも単語と同時に輸入されてきた。それをわざわざ翻訳というか造語して名付けることもなかろうし、システムとかメソッドとか、日本語ではその微妙な違いを表しにくい単語を明確に使い分けるために外来語のお世話になることは構わないと考えます。

そういう意味ではカタカナの功績は大きい。
カタカナのおかげで、それが一目で外来語と分かるように区別できるし、日本語の持つ論理性や最低限の秩序までも外来語になかなか侵食させない。

ところがアルファベットは、いくら日本人にお馴染みとはいえ、そもそも日本語ではない。

今回の大阪地下鉄のように、もはや地名といっても過言ではない固有名称をアルファベットにしてしまった。
もともと広く国民に慣れ親しまれた単語があるのに、安易にそれを捨て、完全なる外国語に置き換えたことに対して、微力ながらも反対意見を根気強く述べていかなければ、まさに病気のようにジワジワと日本を蝕んでいきそうだと強く懸念しております。

多様性を認めるということは、自国文化を否定することではなく、あちらも認めるし、こちらも認めてもらうことじゃないでしょうか。











お酒をやめて、そろそろ10ヶ月にさしかかります。

いや。お酒やめて良かったです。ほんとに。

良かったことはいろいろあります。
まず、お金が減らない。
代行運転も、タクシーも使わない。

それだけじゃない。
ただ単に食事するだけなら30分で済むところを、酒を注文すれば1時間になり、それに見合うようにおつまみその他をダラダラと注文する。

例えばラーメン屋に入ったとして、酒を飲まなければラーメンと替玉だけの料金しかかからない。わたくしは絶対に複数回の替玉をするので安くはないが、それでも1000円を超えることはない。

しかし、もしビールを頼むとギョーザも頼む。それからチャーシューの盛り合わせを頼む。さらにビールをもう1本頼む。最後にラーメンを頼む。
そうこうして3500円程度の売り上げに貢献する。

そういうことがなくなったわけです。

いくらラーメン屋でも酒を飲むと3500円。
食事だけだと700円。

これが続くわけですから、以前ほどカネが減らない。


それから、これが何より大切なのですが、酒をやめたことで宗教的な自覚が持てました。
仏教者として、時代を超えて、地域を超えて、
『わたくしはお酒を飲みません』
と、いつでもどこでも胸を張れる。
この 『いつでもどこでも』 というのはなかなかのもので、閻魔法王の御前にても
『へい!あちきし遅まきながらよわい44で酒はやめちまったでさ』
と胸を張れる自信を持てたということです。


さて。 酒を飲むのはそんなに悪なのか。

悪なのです。
仏教的には。


釈尊は弟子に授戒をなさった。
出家者には250もの戒(約束)が授けられます。
釈尊とのあいだに交わされた約束の数が250もあるのです。

しかし、以前このブログでも紹介しましたが、これらの約束はとてもじゃないが守りきれない。
だから数を減らしてもらいます。
二百五十戒から十戒、八戒、そして五戒。

これ以上はもう減らせないよ、というのが五戒です。
だから、仏教の実践者は、少なくともこの五戒だけはまもらなければならない。

五戒とは

1.不殺生(ふせっしょう)殺すなかれ
2.不偸盗(ふちゅうとう)盗むなかれ
3.不邪婬(ふじゃいん)不倫するなかれ
4.不妄語(ふもうご)嘘をつくなかれ
5.不飲酒(ふおんじゅ)酒を飲むなかれ

の5つの約束です。

各方面から研究され尽くした感もありますが、なぜこのとっておきの5つの約束の中に、酒は飲まないでね、という毛色の違う戒律が含まれているのだろうか。

命あるものを殺すな、とか、人のモノを盗むなといった1〜4までの戒は、だいたい全世界でダメだとされてることばかり。

ところが、それらの罪と飲酒の罪は同格です。
そんなにまで飲酒は罪深いことなのか。

わたくしの感覚で、中学生の時に生活指導の先生にバレて、よりこっぴどく怒られる順番をつけるなら、もちろん殺人がマックスでしょうが

集団暴力>万引き>タバコ>不純異性交遊>>>>>>>>飲酒、ウソつき

こんな感じでしょうか。

学校の先生も、タバコに比べ、正月のお屠蘇などもあるからか、子供の飲酒には割と寛大だったような気がします。

ところが釈尊は飲酒に厳しい。
『調達破僧罪』 (提婆達多が教団の秩序を壊した罪)と、酒に水を足して薄めて売った罪と同等ですからね。


ところで、酒を飲む罪と、酒に水を入れて薄めて不当に利益を得る罪と、これだけを比べたらどっちが重いのだろう。

これが法華経陀羅尼品に出てくるということは、ひょっとすると仏滅後200年経った頃の大乗教団の内部では、飲酒がある程度容認されていたのではなかろうか。
それとも教団内で禁制品を扱うのみならず、さらに詐欺的手法で売るというダブルの罪で破僧罪に匹敵すると言われているのだろうか。
まぁたしかに、不飲酒戒のグループ内で薄めた酒を仲間に不当な価格で売りさばく奴なんざ最悪の最悪。しかも間違いなく破僧罪。


話は戻りますが、なぜ釈尊は戒律の重要度ランキングのトップ5に、250もの戒の中からわざわざ不飲酒戒を入れたのかわからない。

日本では一般的に神様にお酒を奉納します。
ひょっとして、あれは神のみ許される飲み物なのか。
人間ごときが飲んではいけないのだろうか。
しかし、焼酎やウォッカなどの蒸留酒を神様には上げない。
ということは、お米から作る醸造酒に意味があるのだろうか。 釈尊在世のインドで、米から酒を作る文化があったのだろうか。

おそらく釈尊は蒸留酒だろうが醸造酒だろうが禁止なさっただろう。
日蓮宗のお寺では護法の諸天善神にお酒を奉納しますが、そもそも他宗で本堂にお酒を奉納する習慣があるのだろうか。
あれほど釈尊がダメだとおっしゃっているものを御宝前に上げてもよいものなのだろうか。 もしかして御宝前にえっちな本を奉納するくらい無礼なことをしていないだろうか。

経典には 『酒を飲むと地獄で 〜や、〜のような罰を受ける』 との記述はあれども、なぜ飲酒を禁止しているのかの理由は書いてない。
浅学なので、もしどちらかの経典に記述があれば教えてください。

とはいえ、ほとんど酒を飲みたいとは思わなくなったわたくし。
忘年会の時に、皆様、珍しいお酒を持ち寄ってこられます。
その時に味見できないのが寂しいくらいでしょうか。


次はいよいよ、肉食をやめる番だなぁ。

年が明けて早1週間以上が経ちましたが、改めてあけましておめでとうございます。

それにしても、なんでこんなに忙しいのだろう。

この年末年始は本当に忙しかった。
白蓮会館九州本部各道場の大掃除の日、前の日の忘年会の時に嘔吐物を素手で処理したからか、朝からえらく関節が痛むし、唾を飲み込んでも痛い。不思議と熱だけはなかったものの、それ以外の全ての代表的な風邪の症状が現れ、ゆっくり休みたいけれども道場の大掃除です。自分に鞭打ち頑張りました。

翌日、ダウンしました。
丸一日寝てました。

その後、寝ていた分を取り返すべく睡眠時間を削って大稼働。無事に年越しの水行から新春祝祷会を奉行することができました(その時の詳しい様子は嫁ブログ参照)。

今年は年賀状に取り掛かるのが早かったから良かった。これを年が変わる直前まで持ち越していたら終わっていた。

年賀状と言えば、ハガキは値上がりしたのに年賀状は据え置きらしいですな。
今日以降に出す年賀状には10円切手を貼らなければいかんらしい。もし貼らずに出したら相手に請求が行くんだとか。

元日に届いた分の年賀状は処理しましたが、2日以降に暇がなくて、残りは明日やる予定です。なので10円切手が大量に必要です。


土曜日はいーはとーぶ空手に、夜は月例施餓鬼、日曜日は妙法寺の大黒祭(なんと朝6時半から)、月曜祝日には、午前中妙福寺の大黒祭、午後から勝嚴寺の星祭および大黒尊天像沐浴式というハードスケジュールでした。

妙法寺では、急遽空手の演武の依頼があり、佐賀道場のエース達が駆けつけてくれました。
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内陣の高いところで、しかも観客の注目度の高い中で、さらにいつもより高い難易度の試し割りに挑戦して、いつもとはちょっと違う、緊張感のある演武だったかなと思います。
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他の出演者達にも決して劣らぬ堂々とした演武でした。
協力してくれた道場生ならびに御父兄の皆様、ありがとうございました!
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土曜日の施餓鬼で三方にお供えした一対の野菜と果物が、ほぼパーフェクトな状態で御宝前にある。
しかし、1度餓鬼に施したものを諸天善神に奉納するわけにはいかない。
全く同じものを翌日に買い出しに行って、みまがうほど全く同じものを作り直すというテンションの上がらない仕事をこなしながらの本日の星祭。
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一般の水行挑戦者は2人。
嬉野から、ありとあらゆる神事、仏事に参詣なさる池田さん(4回目)といーはとーぶのスタッフの光くん(2回目)です。
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修法のお手伝いをしてくださったのは再行の仲間である、江北町妙善寺の前田智憲上人と、佐賀市嘉瀬町妙福寺の渕上泰之上人。
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大黒天をお祀りするということは、単に大黒天の形をした人形を拝むことではなく、この現代社会の中で、自分自身が大黒天の役割を担って生きていくということ。

平成30年、愚痴をこぼさず、常に笑顔で、思いやりを行動の軸として走っていきます。
皆様、どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。



さて大晦日ですな。

ここ数日の書きたいことは嫁ブログにすっかり書かれてしまったので割愛します。

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日本の美といいますか、精神といいますか、もちろんいろんなものに表われているのでしょうが、そんな中でわたくしが思う日本らしさの最たるものに『紙を折る』ということがあります。

紙を折ることによってそこに生じる直線。

これにシビれます。

他にも。

縄を張ったばかりの直線。

竹を割って、そこに生じた直線。

そりゃ、数学的な意味では直線という条件を満たしていないかもしれませんが、この自然界にもありふれた直線に狂おしいほどの美しさを感じます。

今回の本堂の天井の結界である天符は、こまやかな作業を得意とする高校の同級生・藤田大介氏に手伝ってもらいました。

この神経質なまでの等間隔。
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ああ、なんて美しい。


鏡餅。
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ただ紙をふたつに折るという、たったこれだけの作業に宇宙を感じます。


板注連。
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キュッと締まったこの感じ!
この正月ならではの新鮮さ!


あー。気分がいいわー


ところで。

数日前に本堂の掃除をしていたら荒行堂でもらった天符が出てきまして、それの土幣。
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22年度の再行か26年度の再行かわかりませんが、これは全堂問題ですね。


そうそう。紙といえば、こんな紙もあります。
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電気照明の傘です。

これはかれこれ20年くらい経ちますね。
ところどころ穴が開いてましたが、なかなか張り替えるところまでいかない。
しかし、今年は藤田くんに手伝ってもらってます。この機に破れた障子とともに一気に張り替えます。
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糊が特殊で、霧吹きで濡らしたくらいじゃ紙がなかなか剥がれない。
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しかたない。明日に持ち越します。


いよいよ明日は勝嚴寺での年越し水行です。
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水行を希望なさる方は23:00に勝嚴寺に集合をお願いします。
志納金1000円(祈願札付き)、バスタオルをご準備ください。

水行なんてムリ!という方も初詣だけでもぜひ御参拝ください。

23:00水行受付
23:45記念撮影
0:00カウントダウン
0:05年越し水行開始
0:20新春祝祷会
0:30新春初祈祷
0:50なおらい

というスケジュールです。
御参拝なさった皆様には、お屠蘇とぜんざいを振る舞います。
多くの方の御参拝をお待ちしております!







福岡道場のフローリング工事に伴い、事務所のデスクを撤去しまして、その何にもない空間をいたく気に入っております。

これまでは御父兄の見学用にガッチリした会議用の椅子を置いていたのですが、それがなにぶん場所をとる。なので全部となりの会議室に移動してしまいました。

しかし、見学の皆様に不自由をかけてしまいます。御父兄の皆様は今のところ床に直接座って見学なさる。
まだ暖かいから不便もないが、これがまもなく真冬になればどうか。床に直接座るのも冷えるし、重ねて収納できる丸椅子なんかがいいかも。

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で、これを入り口に重ねて置いとくの。
で、来た人がひとつ丸椅子を取って見学して、帰る時に元に戻すの。

これはいい考えだと思いながら2ヶ月が経過しました。
いちおネットで価格は見ました。
安いもので1600円くらい。
高いものでも2200円くらい。

買うなら15個くらいほしい。
じゃあ、ざっと30000円かぁ。

ちょっと高いなぁ。
それにせっかく買うならAmazonとかじゃなくて、地元業者から買いたいなぁ、などと考えながら、なかなか踏ん切りがつかず今日まで来ました。



ちょうどそんな折り、地元大川の家具屋の営業の電話がお寺の方にかかってきました。

『わたくしども、大川の株式会社◯◯◯◯◯と申します。今特別期間中で、わたくしどもの取り扱う家具が全品40%割り引きにてお求めいただけますが、なにかご入り用のものはありませんか?』

ときた。
こりゃちょうど良かったわいと、重ねられるような、木製の丸椅子が20個ほどほしいと頼みました。

お調べいたしますので、いったん切って後ほどお掛け直しします、と言われました。

その間、ネットで価格調査。
6個セットならちょっと安い、という商品はありましたが、やはりどこも2000円程度。
15〜20個ですから、30000〜40000円くらいの買い物です。
それが40%オフか。そりゃお得だわ。


すっかり買う気になった頃、電話がかかってきました。

『ちなみにご予算はおいくらくらいのものをお考えでしょうか?』

『2000円くらいですかね』

『2000円ですか?ウチでは丸椅子は10000円からのものしか扱ってないので、そこから40%引きで6000円くらいになりますけど』

『は?丸椅子が10000円ですか?失礼ながら今ネットでだいたいの価格見たんですけど、丸椅子ってどこも2000円くらいですよね』

『いえ。ウチは大川の職人が作る商品なので、2000円のものはないですねー』

『いや、あのね、僕が言ってるのは、そんな職人さんが作るようなんじゃなくて、ほら、屋台とか喫煙所とかで使うような、重ねられるタイプの、そんな丸椅子ですよ』

『ええ。わかります。その丸椅子が10000円からなんです』

『あの、丸椅子が10000円って、なにかの間違いじゃないですか?』

『ええ。ウチは10000円のものからしか扱いがありません』

『あのー大変失礼ながら、そんな丸椅子の値段が10000円って、やっぱりおかしいですよね?もし10000円の予算があって、そこで丸椅子買う人っているんですか?例えばダイニングセットの椅子とか、10年以上使い続けることを想定した、背もたれもあって、座面にクッション入れてあって、普通、そんなんでも10000円しなくないですか?誤解なきように言いますけど、僕が言ってる丸椅子って、例えば会議の時に椅子が足りなくなって「すみませーん、こんな椅子しかなくて」って謝りながら座ってもらうような椅子のことであって、そんな椅子に誰も10000円払わないでしょ?』

『そーですねー、でもウチはそれが10000円なんです』

『あのね、僕、決してクレームつけてるわけじゃないんですけど、僕が言ってるのは、普通の人は10000円持って椅子を買いに来たら、絶対に丸椅子じゃなくて他の椅子を買いませんか?てことですよ。オフィス用の肘掛けが付いてて、ちゃんと脚にもクルマがついてて、それが5本あって、背中の曲線に合わせた背もたれついてて、そんなんでも10000円するかしないかじゃないですか』

『そーですねー、でもウチはそれが10000円なんです』

『いや、あのね』

ここでこのスタッフさん、奥にいる誰かに助けを求めて、交代してきました。
この時、わたくしはこの営業の電話がお寺にかかってきたことを思い出しました。

『あ。ひょっとして、寺院用の重ねるスツールですかね?曲げ木の脚に金襴緞子のクッションみたいな、それだったらウチにはいくつかありますし、大川の別の業者さんから購入させてもらいましたが、それでも8000円台だったような』

『いえ。丸椅子ですよね』

『ええ。丸椅子ですよ』

『ウチは10000円のものしか扱ってないんです。申し訳ありませんが、今回は価格の折り合いがつかなかったということでよろしいでしょうか?』

『いやいや。僕は別にそちらに苦情言ってるわけでもなんでもなくて、なにか価格設定をミスされてないかなと心配して申し上げているのであって、できるだけ地元の業者さんから買って差し上げたいので、できればそちらから買いたいと思って申し上げておりまして、まぁ、余計なお世話でしょうけど』

『はい。申し訳ありません。またの機会にお願いします!ガチャ』

『………。』



あああ。


10000円の丸椅子ってどんなものなのでしょうか。

知ってる人、無知なわたくしに教えてください。


【追記】
ブログ書き終えてから
『高級 丸椅子 木製 価格』
と入れて検索したら10000円の丸椅子ありました。
世間知らずの僕が悪うございました。

ただし、スタッキング可能なものは見つかりませんでした。

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