【 大野英章の“昼夜常精進”】

空手道場 白蓮会館(佐賀・福岡) ならびに 日蓮宗仙道山勝厳寺の活動日記。

仙道山勝嚴寺は、佐賀県にある日蓮宗の寺院。各種因縁・未来鑑定/加持・祈祷修法・お祓い・追善供養・水子供養/葬儀・納骨堂・墓地/宗教相談/妙法蓮華經/観心の本尊

国際空手拳法連盟 白蓮会館九州本部は、佐賀・福岡で活動する実戦空手道場。護身錬胆・健康増進・精神修養。ステップ指導で無理なく上達/各会員の目的に応じたクラス編成/新人戦・選手権への挑戦/子供達の礼儀の徹底と体力の向上。

2018年02月

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前回の続きです。


佛教を象徴する花といえば、やはり蓮。

『不染世間法 如蓮華在水』
(妙法蓮華經從地涌出品第十五より ※世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し)

特に白い蓮の花は、汚れた泥水の中でも周りに染められることなく浄らかであることから、佛の坐す場所として大切にされてきました。


われわれの所属する空手道場『白蓮会館』も、その精神を道場の名前に冠しており、儚い流行にいちいち流されることなく武道の真髄を極めるべく精進するという誓願が込められています。

また、日蓮大聖人が、これこそ諸佛出世の本懐であるとして、数ある經典の中で最も重要視された妙法蓮華經(略して法華經)も、その題目に、蓮華の如き妙法を著した經典であるとの意味を込められていると言われています。


佛の智慧とは、流行や、その時々の人が作った決まりなどの、いわゆる世間の法に左右されることがないのはもちろんですが、それならば『蓮華の法』。この法は蓮華のようである、となります。

ところがこれは『妙法』であり、さらに『蓮華經』と続く。


『妙』とは『筆舌に尽くしがたい』という境地であり、この法、すなわち佛の智慧は言葉にはできない。だからこそ『妙法』と言うしかないのです。
方便品にも
『唯佛與佛 乃能究尽 諸法実相』
(ただ佛と佛のみ諸法の真実の姿を見極めることができる)
とあり、逆に言えば
『あんたら庶民には、わからんぜ』
となります。

だから説明する必要がない。
だって、理解できんもん。

と、釋尊は黙り込まれる。

そこを再三再四、弟子達が懇願するもんだから、少しずつ佛の究めた智慧の世界を説明をしてくださる。

そしてこの法は、佛滅後の時代の地涌の菩薩に付嘱する。
この妙法は『蓮華』のような經典であり、説の如く修行すべし、と。


どのへんが蓮華っぽいのか。

泥に染まらずに美しく咲くところか。

違うと思う。
わたくしは逆に考えなければならないと思うのです。

蓮華は泥の中で染まらずに美しく咲く。

そうじゃない。逆です。

蓮華は汚い泥の中でないと咲けない。


蓮華は綺麗に澄んだ水の中では咲くことができないのです。
自身を取り巻く環境が汚くなければ咲けない花が蓮華なのです。

これを智慧の顕現の条件だと考えればしっくりくる。


平凡な暮らしの中では智慧は出てこない。苦難にぶつかった時に初めて佛智が顕れるのではないか。
断食して食べもののありがたさ、命のありがたさに気がつくように、当たり前に景色を見てるうちは何も見えず、失って初めて気がつく。
または、なんらかの不幸な事故に遭遇して、そこで初めて気がつく。
智慧は、どっか別の世界から移植してくるものではなく、最初からそこにあった。しかし凡夫には見えない。凡夫とは、世の中の諸法を当たり前と見て、諸行を永遠と錯覚するからこそ凡夫です。

だからと言って、凡夫が不幸な目に遭えば智慧が見えるのかと言えば別にそうでもない。
不幸を恨んで、なんでオレだけこんな目に、などと思っているうちは智慧は見えません。ただその不幸に痛めつけられて終わり。そして、少し時間を置いて再び似たような不幸に襲われて、また前回と同じように痛めつけられる。で、そんなことを延々と繰り返す。

これこそ無限の輪廻で、我々はなんとかそこから解脱しなきゃならない。

そこで、冷静に観察するのです。そしたら、ちゃんとそこには智慧がある。


恵まれた環境を捨てて、ひとり佐賀県で空手道場を始めてみると、総本部の環境があまりにも素晴らしいことがわかった。そんな素晴らしい環境でこの数年感を過ごすことができた自分がいかに恵まれていたのかわかった。
これは、ただアタマで納得したのとは違う、大いなる感動を伴ってカラダで理解できたのです。

そしたら空手が実におもしろい。
おもしろいと身につく。1人で自主トレする以外特になんもしてなくても強くなれる。


いったん議席を失った国会議員が数年ぶりに再選して国政報告会をやったら、それまでの浪人の期間があったからこそ、この国政報告会を開催できることそのものが、とにかくありがたいことなのだと痛感できるわけです。心からありがたいと思って開催する国政報告会はもはや以前のそれとは違う。智慧の国政報告会です。
でももし安定して議席を守っていたら、国政報告会はただの面倒くさい必須タスクのうちのひとつに成り下がっていたかもしれない。

世間の法からすれば連続で議席を守る方が評価されます。しかし、議席を失ったからこそ感動を得られた。
どっちが貴いか、人に意見を聞けばもちろん連続当選する方が偉かろうが、それは真実の物差しとは関係ない。


真水には咲かなかった花が、泥にまみれて初めて咲いたのです。


感動するためには、順風満帆だけじゃ足りません。壁にぶつかり、穴に落ちて、人に叩かれ、世間に叩かれ、だからその意味を考える機会をもらい、因縁果報に想いを馳せる機会をもらい、やっとひとつ感動という智慧を得る。

今まさにつまづいているその事件は、全て自分の魂の成長のためであった。

空手でも、涙を流すほど悔しいことがあって、そこで気持ちが入れ替わって、そこから強くなれるじゃないか。まさに空手の修業は白蓮の花の如し。それこそが白蓮会館の空手の意味ではないのか。

佛も、乱れに乱れた末法の世の中にようやく出現なさる。逆に、ある程度秩序が維持された社会には出現されない。まさに蓮華のようではないか。


白蓮の花はそうわれわれに教えてくれているのだと考えるようにしております。





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『知識』と『智慧』と、どう違うのか。


試みに英訳を探してみると、
『知識』は『knowledge』
『知恵』は『intelligence
『智慧』は『wisdom』
と翻訳されました(Google翻訳アプリ)。

なるほど。
『knowledge』と『wisdom』では、たしかにレベルの開きを感じます。

国語辞典では
智慧=道理を判断し処理する能力』
とあります。
『一切の現象や、現象の背後にある道理を見きわめる心作用を意味する仏教用語
だそうですよ。


知識をいくら持ってても、それは智慧ではないらしい。


現時点でのわたくしの理解では、つまるところ佛の『智慧』とは『感動を経験すること』である、と思っております。

『知識』も『智慧』も、どちらも情報には変わりないが、その情報をインプットした際に『感動』を伴って取り入れたかどうか。
ここが、せっかく得た情報がただの『知識』で終わるのか『智慧』に昇華するかの違いではないだろうか。


少し前に、

【「ありがとう」の反対語を知っていますか?】

というセンセーショナルな問いかけがSNS上で散見されました。

『ありがとう』とは『有り難く』の音便化したものであり、その字が表す通り『存在することが難しい』という意味です。すなわち希少価値のあるもの、転じて感謝を表す言葉として定着しています。

では『有り難い』の字義を反転させてみると『存在が容易である』すなわち希少価値など全くない、『存在することが当たり前である』になります。

そう。

『有り難い』の反対語は『当たり前』。

当たり前とは、感謝の気持ちが極めでゼロに近い状態です。

母が晩飯を作るのが
『ありがたい』
母が晩飯を作るのが
『当たり前』

健康な身体を持ってることが
『ありがたい』
健康な身体を持ってることが
『当たり前』

学校に行けるのが
『ありがたい』
『当たり前』

給料もらうのが
『ありがたい』
『当たり前』

水を飲めるのは
『ありがたい』
『当たり前』

まさに反対語です。

なるほど。とりあえず頭では理解した。

で、水を飲める環境にいることを『当たり前』だと考える思考に劇的な変化があるかと言えば、今は記憶に新しいから、もし目の前に水があれば『ありがたい』と思いながら飲むかもしれない。でも明日には当たり前にもどる。

これが『ありがたい』と心から思えるまで昇華するためには、それはもう、強い強い感動が必要です。

智慧とは、どんなありふれた体験であっても、そこに強い感動を伴えば『ありがたい』もので、心から『ありがたい』と思って我々の住むこの世界を改めて見直してみると、それはもう、今まで見慣れた当たり前の世界もかけがえのないタイミングと様々な縁で奇跡的に存在していることが理解できるわけです。



わたくしの白蓮会館総本部職員時代、周りは素晴らしい先輩ばかりで、しかも有名選手もひっきりなしに出稽古に来られ、毎日毎日、貴重なアドバイスをいただく。
もちろん珠玉の助言ばかりです。

しかし、いつしかそんな珠玉の世界での暮らしに慣れ、感動することが少なくなってきた。
同じ人とばかり練習するわけじゃない。常に別の人と交わります。そんな恵まれた環境でも慣れると感動しなくなるものです。

どんなに恵まれていても、それが『当たり前』になってしまえば、なにひとつ成長しない。
そんな総本部での生活に閉塞感を持っておりました。


日本のクリスマスは、キリスト教世界からみると良くも悪くも独特の雰囲気のイベントですか、何かで読んだ記憶によると、世界の多くのキリスト教徒はクリスマスに断食をするらしい。

日本のクリスマスでは豪華やご馳走が並び、そのあとにケーキも食べる。1年で最も食卓が賑わう日かもしれません。

しかし、本来の?クリスマスには、キリスト教徒は断食をします。

年に一度くらい、クリスマスの聖日くらいは断食をして、いのちを殺していただくことの有り難さ、また、自分がそのおかげで生かされていることの有り難さを思い出そうじゃないか。そんな重要なイベントだそうな。

まるっきり逆ですね。


そうやって、敢えて『有り難い』という気持ちを定期的に思い出すことによって、智慧の目で世の中を俯瞰する。
そしたら、今まで全く見えなかった真実が見えてくる。この新しい見え方が『智慧』そのものなのでしょう。



24歳の時、杉原宗師に相談して、白蓮会館の暖簾分けをしてもらって佐賀に帰ってきました。

もちろん、1人っきりになります。

心から信頼できる師匠も、憧れの強い先輩も、楽しい仲間も、常設道場も、ウエイト機器も、空手だけやってればみんなに評価される暮らしのサイクルも、全て残して、1人になりました。

ここで気がつくのです。

『ありがたい』。

なんと自分は有り難い環境でこれまで何年も空手に打ち込んできたのか。
なんてありがたい。
こんな恵まれた人生、なかなか選べるもんじゃない。

そう思って自主トレすると、たとえ1人っきりでもそんなに弱くはならないんですよね。
むしろ強くなった。振り返れば佐賀に帰ってきたすぐの、1人からスタートしたあの期間こそが最もグッと強くなれたのかもしれない。

智慧のおかげです。


佛になるのはつくづく大変です。
一生かかっても、一切智には程遠い。

あと何度、死んで産まれて、また死んでを繰り返して智慧が繋がるのだろうか。



さて明日は日蓮宗大荒行堂の成満会です。
修行僧の皆様、おつかれさまでした。

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わたくし、人にモノを教えるということが得意でして、もちろん空手もですが、九星氣學、国語など、特に一般的に習得が難しくて断念する人が多い箇所、例えば国語なら、現代文法で品詞の見分け方とか、助動詞の活用の種類とか、国語の先生でも教えるのが割と苦手なところをしっかり教えて点数を取らせることにはそれなりの自信があります。


このたび父がiPhoneに機種変更しました。


人にモノを教えることに自信があるわたくしではありますが、父にiPhoneの使い方を教えるのよりも教えるのが難しい分野にはこれまで出会ったことがない。

壮絶に難しい。


今日、父の機種変更に付き合ったんです。

父はスマートフォンに多少なりのコンプレックスがあったみたいで、ガラケーにするつもりが、
『うん。新しいことに挑戦してみゅーかにゃ』
などとのたまい、土壇場でiPhoneにしました。

さすがにホームボタンのないiPhone Xはためらわれたので、今回の父のはiPhone 8です。


これがまた難しい。

3歳児に左右の概念を教えるよりも
縄跳びすらできない子に2段階スイッチを教えるよりも
ペンを持つのもご無沙汰な60代女性に後天定位盤の遁甲の仕方を教えるよりも
幼稚園生に花結びを教えるよりも

父にタッチパネルの使い方を教える方が圧倒的に困難です。


ホームボタンを強く(長く)押しすぎてSiriを呼び出してはパニックになり

アプリを強く(長く)押しすぎては削除したり

アプリを開くたびに、位置情報を許可するのかとか、◯◯がカメラにアクセスしていいかとか、なんやかんや質問がある。


これがなかなか邪魔くさい。

わたくしはこれまでほとんど気にしたことがなかった。
ところが、父に使わせるとなると、いちいちそれらの質問などの場面転換が気になる。


いったいなぜ、今わたくしは不自由なくiPhoneを使えているのだろう。

誰に教わったわけでもないが、その使えるようになった道を父に歩ませようとも、その道を険しいと感じるそれまでの知識、経験が、わたくしと父ではあまりにも違いすぎる。


現代社会は年寄りに残酷だ。


老人の『老』という字は、今でこそマイナスな意味しか感じられないが、本来は『経験や知識が豊富である』という意味であった。
だからこそ『家老』は頼りになったし、『大老』なんて地位は最高の褒め言葉だった。『老師』とは年を取った先生ではなく、なんでも答える先生のことだった。

ところが現代社会は、年寄りの知識、経験が応用できぬ場面があまりにも多い。

父とて、わたくしとは比べものにならないほどの知識、経験があるのですが、新時代の標準機器を使う、たったその土俵に上がるだけさえ困難です。


目の悪い父ですが、ただでさえ要領の悪い父ですが、2人で並んで座って、電話を受けること、かけること、それに写真を保存し、見返せるようになること、それくらいができるようになるまで頑張ります。

かけがえのない親孝行の時間だと思って。

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