国難ですな。

国難というより、世界の難です。
我が国に限ったことではない。

今週に入り、にわかに臨場感がが高まってきました。
戦時中の国民の意識というものも、我ガ国ハ米英ト交戦状態トナレリ、などと突然言われても、昨日に比べて自分の暮らしにこれと言って変化もなく、大変だなぁとは思いながらも初期の頃は実感が湧かなかったに違いない。ましてや現代とは比較にならないほど情報量の少ない時代です。身近な人が徴兵されたり、金属供出を命じられたり、敵機が自宅の上空をうろつくようになったりして初めて、ようやく我々は戦争しているのだという事の重大さに気がつくようになったのではなかろうか。

佐賀県で1人感染者が出たとか言ってもどこか他人事だったのが、それから首都近郊都県が外出自粛を求めて、小売店から生活必要物資が消えて、3月25日に福岡市城南区で感染者が出て、という流れは、開戦して3年が経ち、硫黄島が落ちて、米軍が沖縄まで来て、いよいよ本土決戦かというような、これは先の戦争と変わらぬような重大な局面を迎えたのだなと心痛させられております。

震災や台風という国難とはまた違う、非常に恐ろしい事態だと思います。これまでも激甚災害はあったけれども、今回は終わりが見えない。相手(新型ウイルス)の姿も見えない。
今までの災害は、こんな時だからみんな協力し合って、という姿勢で乗り越えてきたけど、今回は誰がキャリアなのか分からず、みんなが疑心暗鬼になり、お互いに協力したくともそれができない。

にわかに臨場感が高まってきました。


普段、ロータスクラブから代金引換にて佐川急便から武道具が届きます。わたくしは時間が空いた時にそれを営業所に取りに行きます。
外出を規制する動きが出てますが、外出しなければ社会は成り立たない。

スーパーなど生活必需品を扱うお店だけ営業して、あとは休ませようなどという論調も散見されますが、スーパーの店員が商品を持ってくるわけではない。物流に携わる業者がいて、初めて商品がスーパーに並びます。その物流業者の周辺には、そもそも卸の業者が機能していなければモノがないし、その先には生産者がいなければならない。トラックを走らせるにはクルマの整備、燃料の提供をする業者が必要です。クルマの整備には部品のメーカーも必要です。社会はどこまで行っても繋がっていて、人との関わりを切ることなんて不可能です。

一見、ある程度の貯蓄があれば何ヶ月か自宅に引き込もることもできないわけではない気がしますが、それは相互に社会機能の一端を担っている個が、ただひとりお休みするからこそ可能ですが、社会とはひとつの大きな生命体として繊細に機能しています。目に映る全てのものは誰か他の人がわたくしたちの為に提供してくれたもので、同時に複数が引きこもることはできないのです。


長年かけて構築されてきたその社会秩序が、もっと強い強制力から有無を言わさず破壊される状態。
まさに戦争です。


『戦争と平和』
という対義語がありますが、わたくしは子供の頃、この対義語に強い違和感を持ちました。

小学生の頃、夏休み中の登校日はだいたい反戦教育の日となっていて、3年生くらいだったか、校長先生が
『みなさんに質問があります。平和の反対語ってなんですか?』
と問われ、上級生がちらほらと
『‥‥戦争。』
と小さい声で答えて、校長先生はそれを拾って
『そう!戦争なのです』
というような導入をされたことがありました。

幼いながら全校集会の間ずっと、んー?平和の反対が戦争なの?とずっと考えていた記憶があります。

今はとても平和とは言えない。
そういう意味では、まさに今は戦争中なのではないか。


これを、とある方が
『平和の対義語は無秩序である』
と定義なさったのを見たことがあります。

そう。平和にはいろんなかたちがあって、正義とかそんな片方に針を振り切った状態だけを指すのではなく、秩序が整った状態を概ね平和と呼ぶのだ。

対照的に、その秩序が乱され、人々がパニックになり、平和とは呼べなくなった状態は、別に戦争だけに限らない。
地震や津波などの天災で普段の暮らしを奪われても誰かと戦っているわけではないが、平和ではない。

既成の秩序が機能しなくなった時、平和を失う。

確かに戦争という状態は、平和の対極には位置するけれども、別に平和でない状態は戦争だけに限らない。
今回、それが感染症というかたちで我が国を、いや、世界を覆った。もはや平和ではない。無秩序状態です。

古い概念が破壊されたのち、どんな時代を迎えるのだろう。
今は一刻も早い騒動の終息を祈るしかありませんが、同時に新しい時代の到来を楽しみにしている自分もおります。