おそらくほんとの勧請とは、佛祖三寳を他者として自分の前にお呼びするというより、自分の心の中に佛を入れて、佛の心と重ね合わせるることではないかと思うわけです。


心に佛を入れるとは、自分の心が佛の心になること。
心が佛になることとは佛智を得ること、すなわち佛になることです。

われわれが如来の室に入るというより、むしろ如来に自分の室に入っていただく。
われわれが如来の衣を着るというより、自分という姿をした衣を如来に着ていただく。
佛に来ていただくためには、その場所(心の中)をキレイにしておかねばなりません。

当然ながら佛は毒なんか吐かないから、もし自分が三毒で汚れておれば、はなから佛に来てもらえない。
あらかじめ身口意を美しい言葉や行動で磨き、法器たらんとの精進が必要です。


そこは、圧倒的に時空を超えた己心の三千具足三種の世間であり、ここに佛を勧請せずしてなんの解決もできない。
己心に佛の来迎をいただいて、初めてそこが本尊となり得るわけです。
その根本となる場所が煩悩で満ち満ちたままでは、いくら修行らしき真似事を長々とやったとしても、全く解脱の道は見えない。


佛が認める法器たる者には自然に妙法が注がれます。

多宝如来は法器の出現を天文学的長期に亘って待ち望んでおられるのです。

その妙法が説かれるところには多宝塔が出現し、多宝如来を始めとした過去の全ての佛と同体となれる。
佛と同体だからこそ、もしは林中においても、もしは園中にあっても、もしは僧房にあっても、もしは白衣の家にても、もしは山谷広野にても、その中には塔が建つし、もちろん供養もされるべきであると。
塔が建つ場所はかつて如来が阿褥多羅三貌三菩提を得た所であり、法輪を転じた所であり、涅槃を現じた所であると。

だって、塔を建てることのできる人とは、すなわち佛そのものですから当然ですよね。


ということは、もちろんいろいろ語弊がありましょうが、たぶん御寳前はそのうちいらなくなるな。


お寺も、宗教団体も。



ふつう勧請って法要の最初に毎回当たり前のようにやってますけれども、実は全ての佛道修行をやり終えた後、ほんとの最後になって、ようやく許されるくらい難しいことなのかもしれません。



なんか、甘くないねー。

自分自身が成佛しなきゃできないわけですから。つくづく恐ろしくなってきます。



あ。そういえば。


お寺とか宗教団体って、なんとなくFacebook勉強会に似てませんか?


最初は必要だけれども、マーケットが成熟するにつれ、次第に存在理由がなくなる。


そういえば医者もそうだ。
病気を治すのが仕事だが、病人がいなくなれば失業しなければならない。



よし。

その日が来るまで頑張るとするか。


お寺も、Facebook勉強会も。





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