前回の記事を書いた後、昔のわたくしの記事を振り返って探し物をしていたら、いや、実に『続きは次回』とか言いながら別の話題で盛り上がって、振りだけで結局答えを言っていないシリーズがたくさんありました。
Facebookで松尾せんせから『つづくかなぁ』のコメントをいただき、何がなんでも続きを書きます。


いや、昨日の記事はほんとに前振りなんです。

先日、Facebookでこんな記事を見かけました。

「『二位じゃだめなんですか』っつうとみんなムッとするが、『一位じゃなくてもいいじゃない みつを』って言われると、有り難がって便所に貼るのが日本人の習性」。


どう感じます?


ちなみに、いろいろ調べましたが、相田みつを氏が実際にこの詩を書き残した記録はなく、ある方が、相田みつを氏による、ほぼ同意の言葉がもし存在してたら、との仮定の上でのツイートしたものが話題を呼び、拡散したようです。

この設問を紹介したブログ記事が他にも少なからずありましたが、およそ、この印象の違いは、
・発言者のトーンによる
・受け止める方の心の状態による
・誰が言ったかの先入観による(好きな人の言葉なら腹が立たないが、嫌いな人の言葉なら許せない)
などが原因として挙げられています。

しかし、わたくしはとてもじゃないが、この場合は絶対に受け取る側の心の問題ではないと考えます。

言語として並べてみればほぼ同意かもしれない。
ところが、発言者の想いが非言語領域で絶対に違う。

蓮舫の発言が、なぜあれだけの国民を怒らせたか。

そりゃ、だって意地悪だもん。

最先端技術開発に携わる人々というのは、いわば競技者です。
日本国の国際的な地位向上のために、国のプライドを賭けて一位を目指しているのです。
一位であり続けることがモチベーションであり、いわば目的そのものであるわけで、それに『2番じゃダメなんですか』って、 は? そんなんダメに決まってるやん!


やはり非言語領域での気持ちのベクトルの違いは存在するし、しかもそれは人にちゃんと伝わるんです。
だからみんながあの発言に腹を立てたのでしょう。


ところが、残念ながら世の中は言語に依らずして自分の気持ちの定義ができない。
言葉になった部分だけが風化しない。
また、言葉になった部分だけが人々に共有される。

だから言葉に翻訳できた部分だけが証拠として有効です。
刑法で結果無価値論を採用する国が多いのも、警察が実際に被害が出てからでないと動かないのも、もし言語化されない抽象的な事象を証拠と認定してしまうなら、みんなで言いがかりをつけてよってたかって普通の人を犯罪者にしてしまうことも可能だから、どこかで線を引くしかないからです。


言語という拙い翻訳機で、非言語領域の想念を懸命に翻訳し、アウトプットした結果、非言語領域での想念は真逆だったとしても、なぜか非常に良く似た文が出来上がることがあります。

だいたい辞書を見ても、ほとんどの単語になぜか必ず複数の意味がある。
複数の意味を持つ単語を組み合わせて文を作り上げる以上、どうしても意味の含み幅が生まれます。


もちろん、言葉は素晴らしい。
わたくしは非言語領域での思考が万能だと言うつもりはないのです。

動物と違い、人間には言葉があるからこそ、なによりも自分の学習のみならず、他人の学習をも共有できる。
自分自身、南極に行ったことがなくとも、南極に行った人の話を聞くことで、そこに居ながらにして南極の情報を得ることができる。

言語に翻訳しておかないと、その時々の想念が記憶に定着しにくい。
我々は暮らしの中でメモを取る。日記を書く。これはのおかげで昔の記憶をいつでも取り出せる。

他にも例を挙げればキリがありません。

しかし、人間も言語を持たなかった動物時代を経て現代を生きている以上、世の動物達と同様に、圧倒的な非言語領域での思考の広大な海の中で生きていて、その中の極めて小さな枝葉の部分を言語に置き換えて、それをちょこちょことインプット、アウトプットしているに過ぎないのです。

要するに言葉は万能ではない。

だって、言葉で表すところの意味が文字上では似通っていても、相手を思いやる気持ちなのか、相手を攻撃する気持ちなのか、そのどちらにでも使えるくらいの幅が持たせられるわけですから。

それなのに、人間社会では言葉だけが証拠として残る。
発言者のトーンなんて言っても、トーンぐらいじゃ抽象的過ぎて、机を叩いたり大声を上げたりと、よっぽど態度が悪くなければ文字には残らない。

だからこそ、人間は言語を崇拝し過ぎているんじゃないかと思うのです。

いくら心では謝罪の気持ちがなくとも、言葉で謝ってしまえば勝ち。
ところが、謝られている方からすれば、やはり分かるんです。
『こいつ、全然悪いと思ってないな』
って。
でも、証拠がない。

いわば、言語の悪用です。

ひと昔前、憲法第九条の解釈を巡って自衛隊が合憲か違憲かが争われていました。

そんなもん、絶対に違憲ですって。
自衛隊の存在なんて、どこをどう読んでも憲法の作成者の意図するところに非ず、ですよ。拡大解釈とかありえない。作成者の非言語領域では全否定なんです。

ルールの穴、というものは言語が不完全である以上、必ず存在するものです。
スポーツにも、ビジネスにも、金融商品にも。

しかし、その領域を悪用するのは卑怯です。

妙法蓮華経の方便品には
『舎利弗。要を取って之を言わば、無量無辺、未曾有の法を仏、悉く成就したまえり。止みなん舎利弗。復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有、難解の法なり。唯仏と仏と、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり』

(意訳)
舎利弗よ。要約すると、想像を絶する程に大きくて、未だ誰も達した事のない法を、仏は全て成就しているのだ。止めよう舎利弗よ、こんな事を口で説明しても仕方がない。なぜならば、仏が成就した法というのは、最高にして類を見ないもので、とても言葉では理解できないようなものであるから。ただ仏と仏の間でのみ、この世のすべての物事の真実の様を見極め尽くした最高の法が理解できるものなのだ。

これって読み方を変えれば、非言語領域を制覇した者を『佛』という、とも取れますね。
佛教では、煩悩に隠されて普段はなかなか見えない領域に気づいた人が菩薩、さらにそれを理解できた人を佛と呼びます。


つまり、人間をはじめ全ての生きとし生けるものは、広大な非言語領域で思考し、その思考に従って行動し、その中で言語というあれば便利な道具をちょこちょこ使いながら他と共存しているのだという事実を前提に生きていけば、けっこう人生はおもしろくなるのではないかということです。

事実、わたくしの空手も、いま俺は非言語思考を鍛えているんだ、と考えたら急に楽しくなってきました。

佛教でいう『悟り』も、学問として頭で悟りを得たいと思っている間は得られない、と言われます。
だからこそ、現代ではそんなことして何になるの?と敬遠されがちな、瞑想とか、断食とか、言語から離れた修行法が古来よりいくつも存在するのでしょう。



さて、ちなみに蓮舫の件に関しては後日談があって、あの発言があったのは公開質問の場で、それ以前に関係者(もちろん答弁者を含む)でリハーサルもあってたそうな。
なのに、本番で答弁者が返答に詰まったせいで、一方的に蓮舫がワルモノになった印象があるが、実際は打ち合わせ通りの質問だったそうな。
この話の真偽の程は不明ですが、一方的な批判にならぬように蓮舫側の言い分もいちお紹介しておきます。

あと、九条の件も後日談(?)があって、先日自民党の県大会に行ったんですが、その時に聞いた話ではどうやら自民党も改正案を書き上げたそうですから、次の衆議院選挙で自民が勝てばひょっとすると動きがあるかもですね。



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