普通の人が佛になるための絶対必要条件は、『覚り』を得ることです。

覚りとはなにか。

その前に、普通の人と佛の違いを明確にしなければなりません。

とりあえず、簡単に、しかも主観的に、類型化してみました。


(普通の人)悩みがある
(覚った人)悩みがない


(普通の人)感情の起伏が激しい
(覚った人)常に穏やかでいる


(普通の人)自分の思い通りにならず苦しむ
(覚った人)この世は苦しみであることを知っている


(普通の人)幸も不幸もずっと続くと錯覚する
(覚った人)世の中は常に変化することを知っている


(普通の人)死んだら終わりと思っている
(覚った人)死は一時的な状態を指す


もちろん他にもいろいろありましょうが、とりあえずこの辺で。

また日を改めて皆様の知識をお借りして、佛と凡夫の『ある・ない』データバンクなんか作ったら面白いかもしれませんね。
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どうやら、佛を得るためには『自我』が邪魔なようです。

『自我』とは何かに執着する心。

『快楽』に執着するから失うのを恐れる。
『苦』から逃れようとするのは『楽』への執着の裏返し。
『生』に執着するから『死』を恐れる。


覚りとはある意味、自我を超越することと似ているのかも知れません。


自我を消すためにはどうすれば良いか。

太古より人は自我を消す方法を探してさまざまに試行錯誤を繰り返してきました。

断食したり、滝に打たれたり、お経を読んだり、座禅を組んだり、瞑想したり、あとひたすら南無妙法蓮華經とお題目を唱えたり。


もちろん、わたくしも読誦行もします。
水行もしますし、お題目も唱えます。

これらの修行法が悪いわけではないのですが、修行の目的を誤ればなんにもならない。

曹洞宗の開祖・道元禅師は
『佛道を習うと言うは自己を習うなり。自己と習うというは自己を忘るるなり』
とおっしゃっています。

佛道って、何か目的を持ってやってちゃ佛に辿り着けない。

無心になれ、って言われても、無心になろう、って頑張れば頑張るほど『無心にならねば』という心に支配されます。

難しいですね。


基本、人が宗教を求める時というのは、困った時です。

日蓮大聖人も
『道心は病より起こるべく候』
とおっしゃっているように、人間、平穏無事な時は特に宗教に必要性を感じません。何か不幸な出来事があったおかげで菩提を求める心を起こすものです。

だからと言って、現状を打開するためだけに修行を重ねても全くダメなんですね。

『今より良くなりたい』
『幸せになりたい』
という自我を満足させようとしているわけで、逆に自我に支配されきった状態に陥ります。


だから目先の利益を得たいという心で、いくらお題目を唱えてもダメ。


目先の利益をゴールにしてお題目を唱えるというのは本末転倒で、やはり得道・成佛という、もう、圧倒的な目標達成を考えなきゃいけないのです。

ところが普通の人は、成佛を目的として信仰しない。
学業増進とか、病気平癒とか、商売繁盛などを神仏に祈ります。

その祈りのゴールには、常に自分で作り上げた幸せな自己像があって、進めば進むほど自分の仕掛けた罠に入り込んで抜けられなくなってしまう。

どんどん具体化して、究極の自己像を自分で具体化させすぎて、いったい自分とは何なのか余計にわからなくなってしまう。


祈りのベクトルが真逆なのです。


『佛道を習うと言うは自己を習うなり。自己と習うというは自己を忘るるなり』

徹底的に自己を省みて、そして自己を忘れることが佛道らしい。

別に神仏に商売繁盛を祈ることがダメではないのでしょうが、そこをゴールにして、そこで祈りが止まったら、かえって佛から遠ざかってしまう。


それにしても、この世界の創造主は、なにゆえに人間に『自我』という厄介なものを投与したのだろう。


つつく



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