今、自分に起きているどんな事象も、ことごとく吉祥である。

そう考えて、どんな現状をも受け止めます。

この世の中で生きている以上、人には見えない、それ相応の壁に必ずぶつかります。その壁があるからこそ、これじゃいかんともがき苦しむ。自分の能力が足りないと思ったら、悩みを解決する知恵を得るために学問に励むなり、悩みを解決するためにやるべきことを実行するなりするでしょう。

逆に言えば、災いを単なる災いとしか見なかったら、ただ自分が痛めつけられておしまいです。
災い転じて福となす、というのは、確かにどう見てもこれは災いなのだけれども、そのために災いを解決する智慧を得たいという心を起こすことのきっかけとなり得るから福なのです。

愚痴は逃避です。
本来の愚痴とは、菩提を求めない行動をとることを指します。
いくらもがき苦しんでも、愚痴をたれ、現状から目を背け、それを乗り越える智慧や力を備える努力をしなければ、また同じところに戻ります。

末法の濁国悪世に佛は出現します。それは、社会全体が汚れた時に佛が出現する、という意味だけではなく、これは己心の本尊が開顕するための条件として、自分が悩み苦しみを乗り越えるときにこそ精進の力が顕れ、すなわち人間の向上があり、菩提心が垣間見えるという意味でもあります。

その時、本尊に対して、懺悔・反省を以って精進を決定します。
なんでも時間がない、面倒くさいといって自分の能力を上げてこなかった。やるべきことをやらなかった。それから、もともと心をそちらの方に向けてなかったと、反省しなければなりません。
佛教で最も大事なこの『精進』というものを、他人には求めながらも、自分では怠ってしまいがちです。

此の経はたもち難し。もし暫くもたもつ者は佛すなわち歓喜す。また諸佛も然なり。
法の実践者の出現は、諸佛が喜ぶ。もしあなたが法を実践すれば、あなたも喜ぶ。あなたのご家族も喜ぶ。実際の人間社会においても、そうやってより良い秩序の構築に繋がるはずです。

そこに現実世界の向上(開運)というものがあります。物事の向上ではありません。人生の、心の向上であり、科学技術の進歩とは関係ない。
心の向上は、過去、現在、未来における平等で、時代は関係ないのです。

日蓮宗の本尊の脇士には、上行、無辺行、浄行、安立行という四菩薩がいらっしゃいます。みんな上の方の漢字ばかりに気を取られてしまいますが、二文字目には何て書いてあるかといえば、全て『おこない』という文字です。四菩薩とはそんな『行力』を擬人化して自分の心の中から取り出したものですから、四菩薩を礼拝するということは、四大菩薩行を行ずることに他ならない。なんのために本尊にわざわざ四人もの脇士が存在するのかと言えば、この四種の菩薩行の実践の後にしか己心の本尊涌現はないからです。

佛法というのは知識の教育ではありません。法華経の中でたびたび描かれているように、佛の智慧とは、必ず喜びを伴って心にいただくのです。それが授記です。

しかし知識は違います。心の震えがあってもなくてもとりあえず知識は入ります。だから同じ学校を卒業しても人によって全く心が違うのはそのためです。

佛に向かっているつもりでも、自分の欲望成就のために思い通りに神佛を操ろうという軽んじた心では、佛に近づくどころか、佛の方を向いてすらいないのです。そして、行いがなければ、喜びもないのです。

三毒に染められず、というのは、せっかく信仰していながら、あの人はこうだ、この人はこうだとか、ああでもない、こうでもないと、いったい自分は何を食べているのだろうか。佛教では、他と比較して優劣を競ったり、怒りの心を起こしたりすることを『毒』と言います。体に悪いから毒なのです。そんな毒を食べながら浄化できますよという神様はいないはずです。
人は気づかずにそんな救いのないことをやっています。こんな行為を謗法罪(ほうぼうざい)と呼びます。

だから逆に、深く己を懺悔し、佛に順じて自分を正します、というのが入信なのです。自分みずから懺悔の世界に『はいる』んです。

しかし懺悔の世界(唯心界)には必ず雑音があります。これを『悪霊』と呼びますが、それらが次々に襲ってきます。わたくしが言う『悪霊』とは、いわゆる『悪さをする霊的なもの』という意味ではありません。あなたの心が作り出す『毒』、つまり『愚痴』『嫉妬』『怒り』の心です。

唯心界とは、いわゆる霊界です。
俗に言う悪霊がうじゃうじゃいます。
本尊は己心と一体と言えども、その悪霊が邪魔して、みだりに御本尊からの声は聞こえてきません。
しかしゴーダマ(お釈迦さま)は、その時に、これじゃいかんと、これら祓う智慧をわれに授けたまえ、と願って修行をなされた。やがて現実社会において、いろいろな巡り会いの中でその功徳が生かされ、その通り真実の智慧が応現して佛となった。

本尊からの声とは、神道的には『神の御降り』とでも言いますか、法華経でいうなら『佛勅』という言葉と一緒かもしれません。

自分の中の悪霊を祓えば、それがひとつ降りてくる。
降りただけで、その智慧によって、悩みが解決します。

自分の中から聞こえてくるのです。

ただ解決したから、ああ、よかったね、で終わるのではなくて、この世の中には初めからそのように智慧があったのだ、ということを悟る。

自分はダメだとか、そういう理解では必ず己を殺します。
違うのです。よく見てごらんなさい。たとえ今のあなたの知恵が愚かなれども、今のあなたが戒徳を備えずとも、もともとはこんなに智慧は広いじゃないですか。深いじゃないですか。
ということを私たちは悟っていくのです。