総括するにはまだまだ早いけれども、2016年という年はいろいろなニュースが飛び交いました。
あまりにもインパクトの強い事件やイベントが続くために、すっかり色褪せてしまいましたが、夏の初めの参議院議員選挙と東京都知事選挙の動向は、いまさらですが実に興味深かった。

わたくしはFacebookを始めとするSNSが好きで、ヒマさえあればしょっちゅう皆様の投稿記事をウロウロしているのですが、当時痛感したのは、つまるところ、つくづく日本人はイデオロギー論争が苦手なのだろう、ということでした。

あの頃は(今もですが)多くの方々がそれぞれの政治的信念に従ってSNS上で意見をおっしゃっていました。


で、感じるのは、右を向いても左を向いても、ほとんどの皆様が意見の対立する相手を指して
『あの人がキライ』。
ということをおっしゃる。


もしくは対立する
『団体・組織がキライ』、
『あの国がキライ』。

ということをおっしゃる。


考え方そのものの論はあんまりない。
ないことはないのですが、相手を否定することを目的として、その攻撃材料を探すための論であり、そこにはお互いの成長が期待できません。

政治的信念がどうあれ、一旦キライになってしまった対象は、もう、なにをやろうが徹底的にキライ。
相手陣営の方が極めて自分に近い意見をおっしゃったとしても
『オレのキライな奴が言ってることだから全部ダメ!』
みたいな。


それが疲れます。


SNS上では、普段穏やかな口調の人でも、これがひとたび政治的な話になると、相手を攻撃する時には、それはいかがなものか、というような汚い言葉を使う。

日本人はディベートができない、と昔から言われますが、そりゃそうだ。
ディベートの最中に、相手の人格否定の言葉が入るから、お互いがいつしか人として許せなくなる。

『論』を争わせるのではなく『人』が争う。

欧米ではディベートの休憩中に、両者が一緒にランチを食べたりするそうですが、まだまだ日本では無理でしょう。だって、そもそも両者の人格同士の争いなのだから。

わたくしがそれを完璧にできるわけではありませんよ。わたくしを含め、まだまだ日本人はみんな対立陣営と食事の同席がてきる日は遠いな、と感じたまでです。


罪を憎んで人を憎まず、という言葉は、わたくしが幼い頃に放映されていたタイムボカンシリーズのアニメの中で毎回必ず繰り返されるお決まりの台詞だったので、わたくしはそれで覚えましたが、出典は『孔叢子』刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(いにしえの裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかった、との意)」だそうです(※いま調べました)。

勝嚴寺で勧請している大黒天には、『滅三毒大黒』という尊称を感得しました。
三毒とは『慳貪』『瞋恚』『愚痴』。
なお、この三毒のひとつに数えられている『愚痴』は、現代社会でいうところのいわゆる『愚痴』とは違う意味ですが、広義として『人の悪口を言わない』を最大の戒めとしております。


『理念』という目に見えない抽象的な話にリアリティを持たせ、人に納得してもらうのは大変な時間がかかり、また受け手の理解能力も勘案せねばらなず、大変なことです。
だから日本(だけに限るまいが)の選挙戦は、安易に容姿その他のイメージ戦略に流れてしまいがちです。
すっかり理念を離れたところへの中傷、人格攻撃は、全くの論のすり替えであり、ディベートとしては失格です。

入学試験というものは学力の考査をしているのに、美人だから合格、ブスだから不合格にする学校なんてありえない。
裁判も同じです。傷害事件の裁判中に、被告は女にだらしないところもあるからもっと罪状を重くしましょう、とか言われたら論のレベルが低すぎる。

しかし、やもすると我々庶民はいつの間にか同様の過ちを犯してはいないだろうか。
いっぱしの政治論者を気取ってはいるものの、関係ない人格攻撃に走っていないだろうか。

思想や意見の違いもありましょう。
『論』を争うのは結構なことです。
だからと言って、相手を呼び捨てすること、まして蔑称で呼ぶこと、また、不幸を祈る言葉、人格を蔑む言葉は慎もう。
そう自戒したいと思います。
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