2月10日は日蓮宗大荒行堂が終わり、100日の荒行を終えた修行僧が再び娑婆世界に戻ってくる日です(わたくしの誕生日でもあります)。

日蓮宗大荒行堂の修行日課は、極端に短い睡眠時間と食事制限の中で寒水を浴し、長時間の読経をすることが中心で、それはそれは肉体的に苦しい修行なのですが、時折それを他宗派の方から
『釈尊は苦行を否定されたのに、釈尊の教えに刃向かうように日蓮宗は大荒行と称して苦行をやっているのはいかがなものか』
と批判されることがあります。


しかし、わたくしはその批判は違うと思う。


わたくしは、この荒行を経験したことで、冬の水は冷たいのだ、腹が減るのは苦しいのだ、ということを初めて知ったのです。

この事実は荒行に行かなかったら今でも知らなかった。

もちろん荒行なんか行かなくても、誰だって冬の水が冷たいことくらいご存知です。
しかし、わたくしは荒行堂で、その極めて当たり前の情報を、大いなる感動を伴って、改めて受け取ったのです。


わたくしは戦中戦後の食糧難の時代を経験しておりませんが、知識としては知っています。
だから、そんな時代を生きてこられたお年寄りに
『へぇー。それはさぞかし大変だったでしょう』
と共感する振りをするだけならいくらでもできます。

しかし逆に、そのお年寄りはわたくしがいくらしかめ顔を作って相槌を打っても、本当に共感してもらっているとは思っていないでしょう。


なぜか。


わたくしには智恵が足りないからです。


日蓮宗大荒行堂の設立の精神はいろいろありますし、ここで修行をしようという僧侶の目的もきっとさまざまです。

わたくしは、そんな日蓮宗大荒行堂でなぜ修行するのかと言えば
『非日常を経験するため』
という重大な目的があると思っております。
非日常の時空の中で、とにかく感動しなければならない。


『知識』と『智恵』は違います。


なんの感動もなく、自分に入ってきた情報は『知識』。
感動を伴って自分に入ってきた情報は『智恵』。

感動といっても、怒り、悲しみ、喜び、痛み、なんでもいいのです。
智恵はやがて生きる力となります。


このところの大規模自然災害で、被災者が避難所での生活を余儀なくされているのは皆様もちろんご存知でしょう。
しかし、それが本当にどれほどまでにつらいものなのか、われわれにはわからない。
われわれが持っているのは、被災者も大変だね、というただの知識です。

しかし被災者は智恵を得た。
身近な人をなくす、財産を失う、故郷を追われるという強い感動を伴って、その辛さがどれほどまでに辛いことかという自然の智恵を得た。

その智恵はただテレビを眺めているだけではわからないのです。


非日常を経験することによって、普通に暮らしているだけでは得られない智恵のかけらを、自然界のいたるところから手に入れることができます。
日常とは、それが日常であるがゆえに感動がない。感動がないから佛の智恵は見えない。

少なくとも荒行堂は、人工的に作られた第一級の非日常の結界時空です。だからそこらじゅうに感動があります。わたくしも、他の修行僧も、少しは結界の時空の中から自然の智恵かけらを持って帰ってこれたのではないかと思っております。

ほんと卑近な例ですが、荒行堂もわずかばかりの期間とはいえ、修行僧の誰もが、全くプライベートのないところで集団で雑魚寝をしながら、暖房器具もない共同生活を経験することにより、テレビを観るだけではわからない、被災者への思いやりの領域が増えたはず。

現代社会に於いては、本当に腹が減る経験はなかなかできません。荒行堂だって断食こそしないまでも、それでも娑婆では経験できなかった空腹の恐ろしさを知った。

朝6時の水行の時の、せいぜい氷点下2度くらいの寒さ、たかだか15分ほどの裸の時間を体験したことにより、先の大戦で海に放り出されて命を落とした海軍の皆様がどれほどまでの苦しみを経験されたのか、シベリアに抑留された日本人の皆様の御労苦がどんなものだったのか、その小さなかけらを得られた


もちろん全てを共感することなんて当事者じゃないと不可能です。

しかし、われわれは自然の智恵のかけらをいただいた。
ゼロにどんなに大きな数字をかけてもゼロのままだったのが、自分の体験が0から1となり、少しの臨場感を持てることによって、その体験につながる話を掛け算することで、その大きさの想像をさせてもらうという入り口に立てます。共感する領域を大きくできるようになるのです。

当事者じゃなきゃわからんなら佛には誰もなれない。
佛の智恵は自然界にバラバラに存在していて、それをありがたくいただいて己の智恵の完成を目指さなければ、ひとつも佛道を歩んでいけない。

佛道の入り口がどこかすら知らなかったら問いかけすらできない。問いかけなしに答えなんてない。答えを求めない世界は愚痴の世界です。

そうやって改めてこの世界を見直してみると、今まで共に暮らしてきた家族も、この我が家も、町も、社会も、また違う景色に変わる。
そうすると、これまでの行いの智恵によって、また新たな問いかけが始まります。本当の学びです。
その問いかけの答えを探すべく、再び修行に励む。
それを繰り返すのが菩提への道。


おそらく釈尊が否定された苦行とは、バラモン教の輪廻転生思想の下、現世で肉体を苦しめることによって罪業を軽くし、来世に少しでも良いステージに生まれ変わるための苦行であり、そんな修行は無意味だと断ぜられたのではないでしょうか。
わたくしの知る限り、日蓮宗大荒行堂で来世もっといいところに転生しますように、という目的で修行しに来ている僧侶はいません。

我々僧侶は、いや、別に僧侶には限りませんが、我々佛弟子は、常に『行』『学』の二道に励まねばなりません。

『学』がなければ問いかけが始まらない。

『行』だけを重ねても、問いかけがなければ感動がない。

知識という言葉に似ているために錯覚されやすいのですが、『学』によって智恵が完成するのかと言えば、そうではない。必ず『行』があり、知識と、感動体験のふたつが揃って初めて『智恵』がようやくひとつ完成するのです。
荒行の期間だけでなく、日々昼夜常精進です。

image