黒帯とは、もちろんその所属する道場が課す昇段科目を修得している、というのが条件ですが、それは当たり前のこと。

逆に言えば、空手以外のなんらかのスポーツをやってた人など、やたらポテンシャルの高い人が、1ヶ月くらい昇段科目だけを詰めてやり込めばすっかりできてしまう場合もあるかもしれません。しかし、それができたからと言って安易に黒帯を授けていいのかと言えば、やはり違和感があります。


例えば書道の場合、美しい文字を書くのが目標ではありましょうが、美しいと言われるお手本の文字を寸分違わずトレースする技術を磨いているわけではありません。
そういう能力に長けた人を書道の名人と呼ぶのかと言えば、絶対そうではない。そのお手本はあくまで数ある選択肢のひとつであり、もしそのお手本とされる文字だけが絶対ならば、活版印刷は達人です。書くたびに文字が微妙に違うなどというアナログな事故は起きないし、文字列が曲がることも起きない。

初心の者に対しては、お手本と呼ばれるものを模範として、ある程度それに近い作品を仕上げることを求められているのは事実です。この書道に於ける最低限の模写の能力が、言わば空手に於ける昇段科目修得みたいなもので、こういう技術・能力は黒帯としての必須の条件ではあるが、充分条件ではない。

では、それ以外の黒帯の条件とは何か。

このことを言ったわたくし本人はすっかり忘れていたのですが、先日、白蓮会館九州本部の有段者だけで懇親会をした席で、次に誰を昇段させるかの話になった時に、黒帯にする際の主観的な基準を思い出したのでここに書き留めておきます。



かなり昔、とある人に、ウチの道場生Aをそろそろ黒帯にしませんかと言われ、その場でその提案を跳ね返したことがあります。

『えー。Aが黒帯?まだダメだよ』

『なぜですか?Aはひと通りなんでもできるし、経験年数もそこそこですが』

『だってAはさ、日々の暮らしの中で空手の優先順位を一番にしたことないもん』

わたくしは別に、空手の為に融通の利かない仕事を辞めろとか理解のない嫁と離婚しろなどとは言いません。
しかし、その自分の生活のフレームの中での空手の順位が低い人には黒帯は渡せない。

黒帯は、空手をただの習い事のひとつだと捉えていてはいけないと思います。
試合で勝つ為に、どうすれば勝てるかを必死で考え、道場の稽古に行く為に残業を断って職場の同僚に迷惑を掛けながらも道場に行く。そして翌日、空手の稽古のために開けた仕事の穴を必死に埋める。道場の稽古のない日は自主トレをしたり、出稽古に行ったりしてみる。
せっかくの休日も空手の練習に充てる。

ヒマさえあればその時間を空手に使うのです。
いや。生活の中にヒマを捻出してその時間を空手に使うのです。

そう。生活の優先順位の一番が空手なのだという日々を送ったことがあるかどうか。



てなことを当時わたくしは言ったらしく、わたくしは忘れていたのにウチの有段者は良くそれを覚えていて、
『いや。やっぱ黒帯の条件って常にそこでしょ』
と言っておりました。

わたくしは支部長ですから、なんやかんやもう25年も空手を続けております。
だからと言って他に仕事をお持ちの道場生に
『おまえも空手が一番という生活を5年以上やれ』
とは言いません。
過去の実績のある名選手でも、現在引退して全く空手と関わっていない人もたくさんいらっしゃる。

期間はそんなに長くなくてもいいのです。
ただ、振り返って、あの頃はとにかく空手一筋だったなぁと思える生活を全く経験したことない人が、いったい空手の何を後進に伝えられるだろうか。

あなたの空手人生に、全力で空手に打ち込んだ、強くなることに全てを捧げた、そんな輝くような瞬間があったかどうか。
白蓮会館九州本部では、昇段審査の受験を許可する際、
『あなたの人生で空手が一番大切だったことはあるか』
を評価したいと思います。


スポーツと武道の違い、という議論され尽くした議論がありますが、わたくしが思うに武道というものは、何かの修得の為に試行錯誤するという過程そのものを目的にしているのではないかと考えております。

仕事もスポーツも極力無駄を省く。
普通はなんでも、できるだけ短距離、短時間で目的地にゴールすることが求められます。

しかし武道では、その無駄を敢えて経験することすらも価値がある。

だから『道』が付いてるのでしょう。
ゴールすることが目的ではない。
ゴールを目指して道を歩むことそのものが目的だから、歩かずにゴールしても武道としてはあまり意味がない。
挑戦して失敗して、それで反省して、対策を打ってまた挑戦する。

武道とはそういうものだと思っています。
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