子供が産まれて4か月になります。
もちろん何も喋れませんが、発声(喃語・クーイングなどと言うらしい)くらいはしております。

これが平均的には2歳くらいで会話が成立するようになるらしい。
会話と言っても、なにぶん語彙が少なく複雑な情報交換は不可能です。しかし、基本的な日本語文法の大枠構造はだいたい頭に入って、それで年齢なりの会話を試みるわけですね。

翻って、我々は学校で何年間英語を学んできたのか。
中学から英語を学び始めますが、すでにある程度脳の容量のできあがったところから単語を覚え、表記も同時に覚え、乳児とは比べものにならない語彙力も同時に取り入れながらの英語学習です。乳児より圧倒的にアドバンテージがある。

なのに6年経って、高校3年になり、もし私立文系を受けるとしたら日中活動の大半を英語の勉強に割いているにもかかわらす、なお日常英会話は難しい。

その差はなんなのか。
もちろん、先に別言語をインストールしてしまっているから、そのせいで思考フレームが別言語を拒絶しているから、というのはあるでしょう。あるでしょうが、それとは別の、習得に意欲的な者でもなかなか会話にいたらないのはなぜか。

そこで、4か月の育児を経験したわたくしが現時点で出した仮説は、言葉に込めた『愛情』、それに言葉周辺の『愛情』の差ではないか、と考えたわけです。

だいたい乳児には、乳児を主役としての言葉がかけられます。われわれの家族は主語(そのほとんどがあかねちゃん)と述語という、わずか二文節の単純構文を機関銃のように浴びせかけます。

学校英語では、読み手に無関係な第三者同士の会話などから始まります。
まず言語の内容そのものの臨場感が全く違う。

それに、愛情があるから、理解しようがしまいが関係なく、同じ言葉を飽きるほど投げかけ続ける。
これが他人なら、普通は同じ話は2度としない。

『繰り返す』=『反復』は、全ての学習姿勢の基本ですが、そこに愛があるのかどうかで実行性が変わってくるのではないか。

我々の小学校の頃の宿題の王道は、漢字を1ページ書き写すことでしたが、これは大変な苦痛を伴うものでした。なぜならそこには愛、つまりプラスの感情がなかなか動かない。
しかしわたくしの母は、字を覚える、というより、美しく書く、ということに強くこだわりがあり、毎回宿題の漢字ノートをチェックしては、美しく書けたか、丁寧に書けたかを評価します。

評価されれば嬉しいし、ダメ出しされればイヤになる。
やはりそれが日常になれば離苦得楽で、褒められたいもんだから頑張る。
おかげでわたくし、子供の頃は相当な多動症でしたが、漢字だけは得意で、さらに平均よりはややマシな字を書けるようになりました。

ところが中学くらいになるとある程度、親も子供の自主性に任せるから反復に愛は減ってくる。だから苦痛です。


英語が得意な人は、やはり英語を話す人と友達であったり、親戚にいたりする場合がほとんど。またはあちらで実際に暮らしたりとか。

そこには必ず愛情ある会話があって、それが血となり肉となり、自分の言語観を構築していきます。

もし本当に生きた英語を使えるようになるためには、愛のある言葉かけが少なくとも2年は必要ではないか。
学校からすればそんなヒマはないでしょうが、それでも急がば回れ、そっちの方が早い気がします。

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さて過日、白蓮会館福岡道場に身長180cmを超える黒人がやってきました。
彼の名前はJevon Westcarr。ジャマイカ人です。ちなみにそんなに日本語は話せません。

この彼がまた良い子で、とにかく素直で感動屋で、なにか技を説明すると明らかに『すごーい』という表情を見せてくれるもんだから、毎日の指導が楽しくてしょうがない。

残念ながら、彼は来年の3月までしか日本にいられません。しかし、今は空手が楽しくて、道場生とも仲良しで、そこにお互いの愛情が溢れています。
彼は日本に来て3年目ですが、残りの数ヶ月できっと今までとは比べものにならないほど日本語が上達するに違いない。

もちろん、同時に我々の英語力も。