妙法蓮華經を根本教典とする日蓮宗(他の法華経系教団も含めて)では、方便品第二から如来寿量品第十六までの間の章を読む機会がほとんどありません。
なぜそこを飛ばすのかと言えば、ちょっと語弊がありましょうが、似た内容の繰り返しだからです。

どんな内容かと言えば、授記です。
とにかく授記が繰り返される。
授記とは、佛が誰かに対して
『あなたは必ず将来〇〇という佛になれます』
という約束をしてくださることです。

法華経の序品列座の聴聞衆は、諸説ありますが1800万人ほどおりました。
普通なら
『ここにいるみなさん!将来みなさん全員、必ず佛になれますよー!』
と、全体に向かって一度だけ言えば済みそうなものを、それを釋尊は
『〇〇よ。そなたは将来〇〇という佛になり、その国の名は〇〇、その時代は〇〇と呼ばれ、〇〇もの人数の衆生が救われるであろう』
と、ひとりひとりに、わざわざ丁寧に授記をしてくださる。
比喩品第三以降、釋尊はそこにいる一人ひとりにひたすら授記をしていくので、もちろん内容はそれだけではありませんが、客観的にあまり代わり映えがしない。

この長い長い授記が、法華経全体の前半のほとんどに及びます。
なぜにこのように釋尊は、全体に授記をせず、わざわざ一人ひとりに授記をしていったのか。



さて、わたくしは空手を始めた当初、学生時代の思い出として3年くらいやってみるか、よしんば卒業までに黒帯を取れたらいいかなぁとか、それぐらいに考えていたわけです。
まさか自分が空手道場の師範になるとか、いろんな全日本選手権などの大きな大会で活躍できるなんて事は、その願望はあれども、そこまで本気で思っていませんでした。

普通、最初から全日本チャンピオンになってやろうと思って空手を始める人はいません。今より少しでも強くなれればくらいに思って空手を始めます。それが修業の過程でさまざまな良縁に恵まれ、そのおかげで当初の目標が途中でより高く再設定され、これを繰り返しながら研鑽が続いていきます。

当時の白蓮会館は、全国的に知名度は高かったものの規模としてはまだ大阪ローカルの流派でした。
わたくしが青帯だった頃、師匠である杉原正康館長が事務所で
『大野はどこ出身なん?』
と声をかけてくださった。

これはすごいことなのです。
当時の白蓮会館総本部は、とにかく道場生の在籍数がスゴくて、同じ青帯ですら名前と顔を覚えきれないくらいおりました。色帯なんて、よほど目立っていないと館長に名前すら覚えてもらえないし、個人的に声をかけてもらうことも極めて稀なことでした。

『ぼくは九州の佐賀県です』
と答えましたら
『そうか。んーなら将来、佐賀に支部ができるなぁ。頑張りや』
と言ってもらったのです。

わたくしはその言葉がめちゃくちゃ嬉しくて、あまりの感激に、
『地元の佐賀県に道場を出すまで頑張る』
という人生の目標がこの時点で確定してしまいました。


これが授記の力です。

まさにわたくしは師匠から未来の支部道場責任者という記別を授けられたわけです。
まさに良縁によってより高い場所に目標が再設定されました。

もし館長がズラリと道場生が並んでる前で
『君たちは全員、いずれ地元で道場を出すことになる』
と言われたからって、誰も空手に人生を捧げません。

館長がわたくしを名指しして、将来キミは支部長になるのだ、と言われたことが完全なる魔法なのです。
ひょっとしたら館長は似たようなことを誰にでも言ってたのかもしれませんが、その一言でわたくしはむちゃくちゃ頑張ろうという気持ちになりました。


ひとりひとり名前を呼んで、あなたは佛になれます、あなたもなれる、あなたもなれる、あなたもなれる、と個を尊重して授記をしていくからこそ言葉に力がある。

ちなみに10年前の結婚式でこのエピソードを紹介しましたら、師匠は
『へ?俺そんなことゆーてないで。彼も作り話が上手ですわ』
と言って笑いを誘っていましたけれども。


話は横道に逸れますが、キリストの映画で、キリストが両手両足を縛られるシーンがありますが、我々現代日本人の発想ならら片手が拘束されるシーンだけ見せられたら、たぶんあとの3本も同じように拘束されてるんだろなと察しますが、作製者は全部カットせずに映した。我々の感覚からすると、この映画のつくりはちょっとくどい。
しかし作製者にとっては、尊いキリストの身体がこんなにも痛めつけられているシーンなのに、それを簡単にはカットできないと考えたのだそうな。


同様に、この全員への授記という作業は、いくら煩雑であろうと省略ができない大切な行程なのです。
だからこそ法華経は他の経典より有り難いのだとも考えられます。


人々が最初から上求菩提をあきらめてしまったら根本的にどうしようもないのです。
まさに人間が向上しないように、何者かによってかけられた魔法のようなもの。

釋尊は、法華経後半の本門を説くよりも前に、この場にいる全員にかけられている、このなんとも厄介な魔法を解くことから始められたのだと考えます。

その厄介な魔法とは『あきらめ=精進の放棄』です。


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